園相神社/川原神社について 宮川沿いの倭姫命御巡幸伝承地 その2

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 その1からの続きです。園相神社と川原神社について

 次に向かったのは三重県伊勢市津村町に鎮座する「園相神社 (そないじんじゃ)」。しかし当然迷う。地図見てるのに迷う。県道22号線↑をどんどん走って、たまに戻ってみたりする。画像に小さく写ってる石碑と祠は伊勢市円座町の「米山新田」の史跡。

 続きは下の「続きを読む」から↓



 結局目についた農協に駐車して、道を尋ねることにした。幸いにも目的地は農協のすぐそばだったことが判明。結構いいところまで来てた。惜しかった。

 園相神社は県道22号線沿いの立地で、実は迷ってるあいだに二度も門前を通り過ぎていた(往復しました)。予想外に交通量の多い道路が、社叢をかすめるようにして伊勢市街に向かっている。ようやく到着したはいいけど、駐車場が見あたらないのと、交通量が多いために社叢の撮影ポイントがなくて困ってしまった。

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 ところが境内に一歩入れば↑この状況。森?って感じだった。とてもすぐそばを車がビュンビュン走っているとは思えない。参道のど真ん中に立派な杉の木が何本も生えていて、それを避けながら社殿に向かう。この境内も木漏れ日が美しい。

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 味わい深すぎて見落としてしまいそうな水盤。「天保十一年二月」と見える。今から200年ほど前に奉納されたらしい。てことはこの辺もしっかり訪れている『神三郡神社参詣記』の世古口藤平も、この水盤で手水を使ったかもしれない。なんだか感慨深い。

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 森の中に鎮座する社殿。園相神社は内宮の摂社二十七社のうちの三位の格式だが、「久具都比賣神社」と同様に一時は荒廃し社地も不明になっていた。紆余曲折を経て現在の場所に鎮座したのは元禄7年(1694年)。祭神は「曽奈比比古命 (そないひこのみこと)」、「御前神 (みまえのかみ)」の二柱。『皇大神宮儀式帳』には曽奈比比古命について「大水上兒曽奈比比古命形石坐」(※1)と記されている。これまた「大水上神」の御子である。
 伊勢神宮のサイトには「祭神はこの地の園作(そのつくり)の神、曽奈比比古命と御前神の二座。倭姫命に御園の地を奉った故事により定められた。地元では「白木さん」と呼ばれ、あつい信仰がある。」(※2)とあり、境内や社地周辺の綺麗さをとっても周辺の住民から大切にされていることがわかる。

『倭姫命世紀』の記述は以下の通り。

「時に久求都彦白さく、「吉き大宮処あり」と白しき。その処に幸行して、園作神(そのつくりのかみ)参り相ひて、御園地(みそのどころ)を進(たてまつ)りき。その処を悦び給ひて、園相(そなふ)社を定め給ひき。」(※3)


 続いて三重県伊勢市佐八町に鎮座する「川原神社 (かわはらじんじゃ)」について↓




 園相神社の参拝はわりといい調子で終えることができたのだが、次の川原神社を見つけるのが大変の大変だった。大まかな予想地点の周囲にまるで人影がない。似たような地形が結構あるし、何より県道22号線から枝道を少し入ったところに目的地があるので探しづらいったらない。今のところカーナビ導入の予定はないけど、こういう時には特に便利そうだ。自分は今回三社巡っただけで午前中を潰してしまったが、迷わなければ2時間もあれば余裕の行程だ。
 しばらく周辺をウロウロした後、道端の立派な戦没者慰霊碑にお参りしつつ休憩していると、遠くにガイドブック(※4)に載ってたのと似たような地形を発見。近付いてみると、どうやら間違いないらしい↓

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 めっちゃ分かりづらかった。でも到着してよかった。慰霊碑で休憩したのがよかったのか。ポイントは道の突き当たりにある樹脂製の壁で、本で見たときにこれなんだろうと思ったのが脳みその片隅に残っていたのだ。この森の奥に社殿がある。
 ↑それにしても立派な森。どこまでが社叢なんだろう。

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 境内への入り口。勝手に入っていいものかどうか、ちょっと迷う雰囲気。

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 社殿。川原神社は内宮の摂社二十七社のうちの二十位。祭神は「月読尊御魂 (つきよみのみことのみたま)」である。伊勢神宮のサイトには「祭神は宮川の守護神と伝えられる、月読尊御魂。社名から往古は宮川の川原で、沢地(現在の地名を佐八という)であったことがうかがえる。月は水の干満に関係あるところから、多く川の神、水の神として信仰を受けられている。」とある。(※2)
「月読命」は太陽の「天照大神」に対して、月を神格化した夜の神様ってイメージがあるけど、水を司る神様でもある。記紀では性別には触れられていないが、『倭姫命世紀』では「形は馬に乗る男の形なり。一書に曰はく、「御形は馬に乗る男の形。紫の御衣(みそ)を著け、金作(こがねつくり)の大刀を帯佩(は)きたまふ」といふ。」」なんてことになっていて、めっちゃかっこええ。(※5)

 この川原神社も今回回った二社と同様に倭姫命の定祝とされているが、『倭姫命世記』の記述から受ける印象は、前述の二社とは少々異なっている。巡幸途上の倭姫命によって土地が命名され、そこに創建されたのが川原神社といった感じ。
『倭姫命世紀』では、

「この処より幸行するに、沢道野(さはみちの)在りき。その処を沢道小野と号けたまひき。」(※6)

 と、あっさり。川原神社が鎮座するのは伊勢市佐八町だが、この「佐八」という町名は「さはち」でも「さや」でもなく、「そうち」と読む。「沢道 (さはみち)」→「佐八 (そうち)」と変化したらしい。「沢道野」は『倭姫命世記注釈』に「沢の中に道が通じる野か。あるいは、沢に平行して道が通じる野か。」(※7)とある。現在でも神社の裏手には小さな流れがあって、すぐそばを流れる宮川に注いでいるらしい(未確認)。
 
『倭姫命世紀』の記述はさらに続く。

「その時大若子命(おおはくごのみこと)、河より御船率(ゐ)て、御向へに参り相(あ)ひき。時に倭姫命大きに悦び給ひて、大若子命に問ひ給はく、「吉き宮処在りや」とのたまひき、白さく、「左古久志呂宇遅(さこくしろうぢ)の五十鈴(いすず)の河上に、吉き御宮処在り」と白しき。また悦び給ひて問い給はく、「この国の名は何ぞ」とのたまふ。白さく「御船向田の国」と白しき。その処より御船に乗り給ひて幸行したまひき。その忌楯桙(いむたてほこ)、種種(くさぐさ)の神宝物(かむたからもの)を留め置きて、所の名は忌楯小野(いむたておの)と号けたまひき。」(※6)

 名付けについてはあっさりだけど、続いてこのあたりで色々やってる。「五十鈴の河上」が示唆される重要なくだりである。「左古久志呂」は五十鈴川にかけた枕詞。「宇遅」は「宇治山田」の「宇治」である。「御船向田の国」は不明ながら、『倭姫命世記注釈』にあるように話の流れから佐八町の近辺かと思われる。種々の宝物を留め置いたという「忌楯小野」も同様に不明。
「大若子命」別名「大幡主命 (おおはたぬしのみこと)」は、外宮の祠官を代々世襲し、『倭姫命世記』を含む「神道五部書」を編纂したとされる度会氏が祖先としていただく神である。倭姫命の御巡幸を補佐するようにたびたび登場する。

 それにしても巡る神社の全てが、社地だけじゃなくてその周辺も含めて清浄に保たれているのに驚かされる。風雨にさらされる白木の社殿や鳥居にはさすがにそれなりのダメージがあるけれど、それでも清潔感は損なわれていない。
 度会郡や宮川沿いには今回の三社の他にも倭姫命の御巡幸伝承地が多数ある。全部見るには軽く山歩きの必要もあるとか。まだまだ足を運ぶつもりなので楽しみだ。


 ※1.『皇太神宮儀式帳』京都大学貴重資料デジタルアーカイブ → https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp
 ※2. 伊勢神宮のwebサイト → http://www.isejingu.or.jp
 ※3. 和田嘉寿男『倭姫命世記注釈』和泉書院 2000 研究叢書 258 p91
 ※4. 楠木勝俊『倭姫命の御巡幸』アイブレーン 2015
 ※5. 和田嘉寿男『倭姫命世記注釈』和泉書院 2000 研究叢書 258 p192
 ※6. 同上 p97
 ※7. 同上 p98

 ※ 参考
  『日本古典文学大系〈2〉風土記』坂本吉郎校注 岩波書店 1958
  『日本古典文学大系〈67〉日本書紀 上』坂本太郎, 家永三郎, 井上光貞, 大野晋校注 岩波書店 1967
   世古口藤平『神三郡神社参詣記』皇學館大学神道研究所 2005 神道資料叢刊十一
   所巧『伊勢神宮』講談社 1993 講談社学術文庫
   朝倉治彦, 井之口章次, 岡野弘彦, 松前健編『神話伝説辞典』東京堂出版 1963
   皇學館大学編『伊勢志摩を歩く』皇學館大学出版部 1989
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