H・P・ラヴクラフト『神殿』

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 H・P・ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft)著, 大瀧啓裕訳『神殿 (ユカタン半島沿岸で発見された手記)』(“The Templ”『ラヴクラフト全集〈5〉』東京創元社 1987 創元推理文庫 所収)

 第一次大戦中、ドイツの潜水艦「U29」は大西洋上でイギリスの貨物船を撃沈した。浮上してみると甲板上に他国の船員の死体がある。海中に没した貨物船の乗組員である。死体からは極めて奇怪な象牙細工が見つかった。潜水艦の乗組員の中には、それを目にしておかしくなる者があった。幻覚を見て、錯乱している。
 数日後、機関室の爆発事故によって潜水艦は航行不能に陥った。幸い空気と電力は確保できている。絶えず南に流される艦には、イルカが群がっている。乗組員たちはことごとく死亡し、艦に残っているのは二人きりになった。艦は南に流されながら、深く沈み続けている。生存者の一人は「彼が呼んでいる」と口走ると、象牙細工を手に深海へと身を投じた。やがて艦の探照灯が海底に横たわる壮麗な神殿を照らし出した。

 そうとははっきり書かれてないけれどクトゥルフ神話との関係が濃厚な、Uボートを舞台にした海洋小説である。特に捻りのないシンプルな作品だが、それだけに著者の趣味趣向や手法や手癖を如実に感じることができる。巻末の「作品解題」には、主人公の鋼のメンタルによる徹底した神秘の否定が、クライマックスで肯定に逆転する構成を示して、「ここに日常のリアリズムを超現実のリアリズムに変換させるラヴクラフトの真骨頂がうかがえる」(p.327)とある。劇中にも「恐ろしく想像もつかぬ最期へと、吾輩を否応なく引き寄せるためにだけ、運命の女神は吾輩に理性を保たせているのではあるまいか」(p.26)といった一節がある。著者のドイツ人観がどれほど反映されているかは分からないが、合理的精神の権化、そんなキャラを過剰に演出するために、ドイツ人主人公のメンタルはとんでもないことになっている。わがドイツ軍の輝かしい戦果、ドイツ国家のための気高き行為、ドイツ人の精神、わがドイツ人の意思、ドイツ人が、ドイツ人の、ドイツ人は〜といった愛国的な記述がドカドカ出てきて、正直かなりクドい。ただ一人主人公の気が変にならなかったのは、実はもとからおかしかったから、と言わんばかりの狂信的な愛国ぶりだ。

 本作に登場するU29は架空の艦らしいが、第一次大戦中のUボートの可潜深度はせいぜい50メートル、劇中では圧壊深度をはるかに超えて潜水しているようだ。壊れた潜水艦が舞台となれば、電力酸素の欠乏、圧壊の恐怖、反乱などなどネタには事欠かない気もするが、著者はそんな定番の展開にはほぼ無頓着で、不思議なイルカの群れに誘われるように沈下していく潜水艦と、深海に眠る神秘的な神殿の様子を筆を尽くして描写している。静かで厳かな結末は、著者の作品の中でも屈指の美しさだ。



『ラヴクラフト全集〈5〉』
 東京創元社 1987 創元推理文庫
 著者:H・P・ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft)
 訳者・作品解題:大瀧啓裕

 収録作品
 『神殿』(“The Temple”)
 『ナイアルラトホテップ』(“Nyarlathotep”)
 『魔犬』(“The Hound”)
 『魔宴』(“The Festival”)
 『死体蘇生者ハーバート・ウェスト』(“Herbert West-Reanimator”)
 『レッド・フックの恐怖』(“The Horror at Red Hook”)
 『魔女の家の夢』(“The Dream in the Witch House”)
 『ダニッチの怪』(“The Dunwich Horror”)
 『資料『ネクロノミコン』の歴史』(“History of Necronomicon”)

 ISBN-13:978-4-4885-2305-3
 ISBN-10:4-4885-2305-6
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