幸田露伴『蘆声』

0 Comments
serpent sea
 

 幸田露伴『蘆声』(『幻談・観画談 他三篇』岩波書店 1990 岩波文庫 所収)

 三十年ほど前の出来事である。当時の自分は気ままな暮らしをしており、毎日のように中川べりへ出かけては釣り糸を垂らしていた。ちょうど秋の彼岸の少し前ごろのことだと覚えている。その日も午後から中川べりの西袋へ出向いた。と見ると、いつも自分の座るところに、十二、三歳の貧しい身なりの少年が釣り糸を垂れている。自分は場所を譲ってくれないかと申し出た。彼は最初こそ反抗の色を浮かべたが、自分の話に納得したらしく座を譲った。応酬から察するに思いのほか利口な子らしい。しばらく言葉を交わすうちに、彼が躍起になって魚を釣り上げようとしている理由が知れた。継母に気の利いた魚でも釣ってこいと叱られたのだという。とはいえ少年の腕前と仕掛けで釣れるのは、この季節釣ってもどうにもならないフナくらいのものである。帰り際、自分は適当な理由をつけて、セイゴを二匹、彼に取らせた。その翌日も翌々日も自分は同じ西袋へ出かけたが、再びその少年に会うことはなかった。

 悠々自適のおっさんが、釣り場で知り合った少年に魚をあげる話。それだけ。それだけなのに、なぜか面白い。
 またしても釣りの話である。帝都物語の人だった著者のイメージは、すっかり釣り人になってしまった。作品全体のトーンは叙事的で飾り気がない。冒頭から主人公(著者)の身辺の雑事や、川べりの光景が淡々と綴られていく。心にうつりゆくよしなしごとを~って感じのノリである。自分は毎日釣りばっかしたいわけじゃないけど、この作品の主人公のライフスタイルはイラッとくるほど羨ましい。午前中に些事を終わらせて、あとは近所で釣り三昧。贅沢この上ない暮らしぶりだ。

 ……そんなイラっとくる話はさておき、釣りエッセイ的だった雰囲気は少年の登場によって一変する。彼一人に絞られた描写の数々は驚くほど明晰で凄みがある。「細い首筋の赤黒いところに汗が沸えてでもいるように汚らしく少し光っていた」(p166) ←たったこれだけの記述から、少年の貧乏ぽさ、健気さ、ひたむきさが、過剰なほど伝わってくる。想像で書いたとはとても思われないから、実体験によるものだろう。だとするとすごい観察眼&記憶力である。
 二人のやり取りの全般がこんな調子で書かれているから、釣り人と少年とのほのぼのとした交流ってムードではなくて、不思議な緊張感がある。剣客の立会いか、オーラバトルみたいになっている。おかけで金持ちのおっさんが貧しい子供に施しをするような、嫌らしい感じがなくてよかった。また「今でも時々その日その場の情景を思い出す。そして現社会の何処かにその少年が既に立派な、社会に対しての理解ある紳士となって存在しているように想えてならぬのである」(p.185)という結びの言葉も、かつての僚友に思いを馳せるようなニュアンスで、じわっと感動を呼ぶ。主人公の思い出の中の、夕暮れの堤を遠ざかる少年の姿は、どこか凛としていて美しい。



『幻談・観画談 他三篇』
 岩波書店 1990 岩波文庫
 著者:幸田露伴
 解説:川村二郎

 収録作品
 『幻談
 『観画談
 『骨董
 『魔法修行者
 『蘆声

 ISBN-13:978-4-0031-0128-5
 ISBN-10:4-0031-0128-6


関連記事
serpent sea
Posted byserpent sea

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply