楳図かずお『凍原〈ツンドラ〉』

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 楳図かずお『凍原〈ツンドラ〉』(『シリーズ〈こわい本〉〈9〉残酷の一夜』朝日ソノラマ 1985 サンコミックス 所収)

 この第9巻は「楳図かずお シリーズ こわい本」屈指の短編集だ。様々な形で人の心の暗部をえぐり出す珠玉の名作5編が収録されている。なかでも抜群の完成度を誇るこの『凍原〈ツンドラ〉』は、1973年に『ビッグコミック』誌に掲載されたもので、傾向としては男女の愛憎劇を基調に描かれた後の『闇のアルバム』(1974)に近い。

 主人公はごく普通の主婦。最近息子が東京の大学に進学して、まじめで大人しい夫と二人で暮らしている。夫の出勤を見送ったあとの彼女は、家事をこなし、TVを見て、平凡だけど幸せな毎日を噛みしめながら編み物をする。小さなコマの積み重ねで表現される、主婦の生活感が素晴らしい。また以降の展開のキーアイテムとなる、スリッパや鍵などの繊細な描写も見逃せないポイント。

 夕方、主婦は呼び鈴の音にドアを開ける。夫の帰宅時間である。「あのベルの鳴らし方はいつもどおりの」(p.124)という言葉からして、これも編み物の糸の目を拾うように彼女が繰り返してきた平凡な日常の一部なのだろう。しかしドアの向こうに立っていたのは、夫ではなく、目出し帽をかぶった見知らぬ男だった。
 男は上がり端を土足で踏みにじり、主婦に襲いかかる。ここで挿入される土足のカットは、冒頭のスリッパの描写に明確に対応するもので、こんな小さなコマにも著者の神経の細やかさと、尋常でない演出力を垣間見ることができる。

 男の目的は主婦を陵辱することらしい。数ページにわたって無言の、激しい攻防が展開される。p.128の2段目のコマの、片乳をさらけ出しながら男の腕を振り切る主婦の形相、これが平凡な生活を守ろうとする主婦の表情である。叫び声一つあげずに抵抗する女の強靭さは怖ろしいほどだ。
 はじめてこの作品を読んだときは、まだマンガのおっぱいにワクドキする年頃だったんだけど、この主婦のおっぱいにはいつもと違う、なんかこう見てしまって申し訳ないような、後ろめたい気持ちになった。

 この鬼気迫るバトルは、押し倒された主婦が男の小指を喰いちぎったところで終了する。男が逃走したあと、口から小指を吐き出した主婦が最初にしたことは、通報や助けを求めることではなく、着替えと部屋の掃除だった。もうすく帰ってくる夫に、たった今起こった出来事を気取られぬように。血痕を拭い去り、小指はテッシュに包んでゴミ箱に捨てる。彼女が格闘の痕跡をちょうど消し終えたとき、夫が帰宅する。

 とにかく完成度の高い作品だと思う。全編に異様な緊張感がみなぎっている。一連の暴行シーンには、まるで犯行に立ち会っているかのような臨場感がある。
 一人の男の暗い欲求がこの物語のきっかけになったことに間違いはないが、そもそも主婦が執着した平凡な日常とはなんだったのか。ここには描かないけれどオチも非常に秀逸で、「平凡な日常」を守ろうとした主婦の抵抗が、想像以上に脆弱な「平凡な日常」そのものを突き崩してしてしまうという皮肉な話である。


 ※フキダシからの引用は、読みやすいように改行を調整しています。


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Posted byserpent sea

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