H・P・ラヴクラフト『インスマウスの影』

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 H・P・ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft)著, 大西尹明訳『インスマウスの影』("The Shadow Over Innsmouth"『ラヴクラフト全集〈1〉』東京創元社 1974 創元推理文庫 所収)

 創元推理文庫版全集の第1巻の一番最初に収録されている、著者H.P.ラヴクラフトの代表作。クトゥルフ神話の中核を成す作品の一つとして知られる、暗黒のぶらり途中下車の旅だ。この作品が収録された『The Shadow Over Innsmouth』は、著者が存命中に出版された唯一の本で、書影を見てみると、表紙にはなにが描いてあるか判然としない挿画と、タイトル、著者名がざっくり印刷されていて、文集っぽい素朴な雰囲気。刊行は1936年。

 ニューイングランドを旅する主人公はアーカム行きのバスを途中下車して、良からぬ噂が囁かれる寂れた海辺の町、「インスマウス」を訪れた。町は聞きしに勝る荒廃ぶりで、かつて漁業で栄えたことを窺わせる歴史的な建造物でさえ、どうにか形骸をとどめているといった有様。人影はまばらで、時折見かける住人の多くは魚類や爬虫類を思わせる一種独特の風貌をしている。主人公は住人から狂人扱いされているアル中の老人から、ここ90年のあいだに町で起きた忌まわしい出来事の数々を聞くことができた。ある男が海外から持ち込んだ邪教とその信者たち、沖合に黒々と見える「悪魔の岩礁」にまつわる話を。
 妄想めいた老人の話に不気味な整合性を感じた主人公は、早々にインスマウスの町を離れることにする。ところが唯一の交通手段であるバスが故障したために、町のホテルで一夜を過ごすことになってしまった。深夜、彼が嫌な予感をひしひしと感じながらベッドに身を横たえていると、何者かがドアの向こうで動きまわる音が聞こえる。彼の部屋の鍵をこじ開けようとしているのだ。

 このあと主人公はホテル&インスマウスの町から、這々の体で脱出する。この一連のシーンは、著者には珍しくアクション重視のアクロバティックな大脱出劇で、スリル満点。追跡者の正体がチラチラ見えるのが怖い。話の大筋は以前感想を書いたA・ブラックウッドの『いにしえの魔術』(←前の記事へのリンクです)によく似ている。著者はブラックウッドの大ファンだったというからそれなりの影響を受けているかもしれない。しかし似ているのは大筋だけで、設定資料もかくやって感じの綿密な書き込みと、優れた情景描写によって、本作は強烈な独自性を獲得している。ブラックウッドが輪廻と忌まわしい過去への甘美な誘惑を描いたのに対して、著者が描いた悪夢は異境の神と信徒に浸食され頽廃していく町と、逃れ難い遺伝の恐怖の物語だ。こと「遺伝の恐怖」は著者の様々な作品で繰り返し用いられる重要なテーマである。

「訳者あとがき」に「現代の怪奇小説の最高のものである」とあるように、本作は著者の作品の特徴を漏れなく備えた上に、エンターテイメント性も高いという非常にバランスのとれた作品だと思う。後々の作品に及ぼした影響の大きさから、邪神やその世界観に言及されることが多いけれど、独特の孤独感もまた著者の作品の顕著な特徴で、それが排他的な町にポツンと放り出された本作の主人公の心情にぴったりマッチしている。
 あとこの作品は1992年に舞台を日本の港町に置き換え、『インスマスを覆う影』というタイトルでTVドラマ化されている。主演は佐野史郎。残念ながら市販のVHSソフトは持ってないけど、当時録画したビデオが実家にあるはずなので、カビとか生えてなかったら今度帰ったときに見てみます。


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Posted byserpent sea

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