H・G・ウエルズ『水晶の卵』/『塀についた扉』

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serpent sea
 

 H・G・ウエルズ(Herbert George Wells)著, 橋本槙矩訳『水晶の卵』("The Crystal Egg")
 H・G・ウエルズ(Herbert George Wells)著, 橋本槙矩訳『塀についた扉』("The Door in the Wall"『タイム・マシン 他九篇』岩波書店 1991 岩波文庫 所収)

『水晶の卵』("The Crystal Egg")
 骨董店の主人ケイブが頑なに売ろうとしない「水晶の卵」には秘密があった。それはある角度で光を当てると、水晶のなかに不思議な世界の光景が見えるというものだった。家族からの売れ売れ圧力から逃れるため、友人ウェースのもとに水晶の卵を持ち込んだケイブは、二人で不思議な世界の観察をはじめ、やがて星の位置や衛星の運行から、それが地球外の惑星の風景なのではないかと思い至った。

 うらびれた骨董店、ギスギスした家族(二人の子供が妻の連れ子だったり)、MIBのような正体不明の二人連れという序盤の品揃えから、怪奇小説サイドにぐぐっと寄った話かと思いきや、学校の実験助手を勤めるウェースが登場するあたりからにわかにSFっぽくなる。二人が覗いていたのはまだ長大な運河があると考えられていたころの火星。赤い大地、モダンで壮麗な建造物、甲虫のようなメカに、飛翔する鳥人などの楽しいガジェットに満ちた火星の風景なのだった。この雄大な未知の光景と「水晶の卵」を介して繫がっているのが、ロンドンの片隅のぱっとしない骨董店というギャップがおもしろい。水木しげるはこの作品のアイデアをいたく気に入ったらしく、何度か翻案したり作品に取り入れたりしている。


『塀についた扉』("The Door in the Wall")
 ウォレスは幼いころ偶然に迷い込んだ夢のように美しい「庭園」への憧憬に捕われていた。それは蔦の絡んだ白壁に設けられた、緑の扉の向こうに広がっていた。彼はこれまでに何度かまったく異なった場所でその扉を目にしたことがあった。ただ扉の向う側に足を踏み入れたのは幼少時の一度きりで、毎回何らかの事情、宿題や奨学金獲得や恋人との逢瀬に追われて、あの庭園に強く惹かれながらも扉を開けようとはしなかったらしい。ところが最近になって、彼は三度も続けて扉を見かけたという。そして扉の向こうに行く機会を永遠に失ってしまったと嘆いた。彼は成功者と呼ばれる立場の人間だったが、大きな喪失感を感じながら、夜の町を彷徨うようになった。

 ウォレスが迷い込んだ「庭園」には、色彩豊かな花々が咲き誇り、美しく親切な人々や大人しい動物がいて、喜びと優しさで満ちあふれていたという。火星の奇観と比較すると少々物足りないような気もするが、著者と同時代のバーン=ジョーンズの絵画の世界みたいな感じだろうか。ダメダメ感たっぷりの骨董屋の親父が欲望の赴くままに「水晶の卵」をガン見していたのと比べて、成功者のウォレスは扉をちょっと開けてみることも出来ないほど忙しかったというのがなんとも世知辛い。


『水晶の卵』は空想科学小説、『塀についた扉』はファンタジーあるいは主人公の精神の危機を描いた作品って感じなんだけど、両作とも実生活に疲弊した主人公が、日常に生じた空隙から異世界を覗き見、それに心を奪われてやがて破滅するという物語だ。これを書いてるのが「SFの父」なんて呼ばれるウエルズなのだから、皮肉っぽいったらない。


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Posted byserpent sea

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Re: No title

>>17/12/10さん

著者自身がどの程度、主人公に自分を反映させていたのかはわかりませんが、
劇中に感じられる切なさや寂しさは、ため息のようにうっかり漏れてしまった著者の本音のように感じられました。
自分はウェルズの長編も大好きなのですが、
こういった短編には、より著者の人となりが滲み出ているように思います。

コメントしてしていただけて嬉しかったです。ありがとうございました!

2017/12/11 (Mon) 01:12 | EDIT | REPLY |   
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No title

久しぶりに「塀についた扉を」読み返すことがあり、
人の感想も読みたくて、こちらにたどり着きました。

”これを書いてるのが「SFの父」なんて呼ばれるウエルズなのだから、
皮肉っぽいったらない。”

そういえば、主人公の名前はウォレスで、どことなくウエルズを想起させるし、
作中出てくる豹は、ウエルズお気に入りの動物でもあったようですね。

ウエルズは社会活動家としても相当の人物で、
国際連盟を提唱して、ワシントン会議に出席したり、
(実は日本の憲法9条にも影響を与えているのだとか)
華々しい経歴があって、

この作品はウェルズにとっては大分後期の作品であることを考えると、
やはり自身のことを書いた精神的自伝作品だったのかもしれませんね。

2017/12/10 (Sun) 10:05 | EDIT | REPLY |   

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