『今昔物語集 巻第十四 本朝 付佛法』より「第三」道成寺のヘビ女について

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『今昔物語集 巻第十四 本朝 付佛法 紀伊国道成寺僧、寫法花救蛇語第三』(山田孝雄, 山田忠雄, 山田秀雄, 山田俊雄校注『日本古典文学大系〈24〉今昔物語集 三』岩波書店 1961 所収

 先日『幽霊・妖怪画大全集』(←前の記事へのリンクです)という展覧会に行ってきた。それ以来『道成寺』の「安珍と清姫」関連の本をつまみ読みしている。「清姫」は本当に好きなキャラで、熊野に行くことがあったら関連の史蹟(墓や塚があるらしい)をぜひ見て回りたい。それから京都の「妙満寺」(※1)には、もと「道成寺」の鐘(清姫が巻き付いたのとは違う鐘)が所蔵されているらしいので、これも一度見てみたいと思う。

「安珍と清姫」のストーリーは歌舞伎や浄瑠璃、推理小説やドラマのネタなどでよく知られているが、もとは古い説話で平安時代の仏教説話集『法華験記』に収録され、『今昔物語集』にもそれを典拠にしたと思われる説話が載っている。南方熊楠は『十二支考』のなかで、「予は清姫の話は何か拠るべき事実があったので、他の話に拠って建立された丸切(まるきり)の作り物とは思わぬが、もし仏徒が基づく所あって多少附会した所もあろうといえば、その基づく所は釈尊の従弟で、天眼第一たりし阿那律尊者の伝だろう」(※2)と記し、この説話の成立以前の最もよく似た話として『弥沙塞五分律』(※3)のなかのエピソードをあげている。

 愛欲に狂った女性が蛇になるという話は「安珍と清姫」のほかにも結構あって、女性が恋する相手は僧だったり、大工、お稚児と色々だけど、江戸時代の怪談本にもその手の話がいくつも収録されている。ストーリー的には「安珍と清姫」をベースにしてるものも多いが、やっぱり一番かっこいいのは「清姫」。妄執の強烈さ、蛇体のでかさ、毒気の威力、どれをとってもものすごい。ただ残念なことにこの『今昔物語集』の説話には「清姫」というキャラは出てこないんだけど……(後述)。

 ※1.「顕本法華経 総本山妙満寺」のサイト↓鐘については「見どころ」のページに。
 http://www.kyoto.zaq.ne.jp/myomanji/index.htm

 ※2. 南方熊楠『十二支考〈上〉』岩波書店 1994 岩波文庫 p.301
 ※3.「みしゃそくごぶんりつ」『弥沙塞部和醯五分律』(みしゃそくぶわけいごぶんりつ) 仏教の聖典の一部で律蔵(お坊さんの決まりをまとめたもの)のひとつ。

 また長くなってしまったので、収納しました。下の「続きを読む」より、『今昔物語集』の意訳、でっかいヘビのことなどごちゃごちゃ書いてます。


『紀伊の国の道成寺の僧、法華を写して蛇を救える語 第三』

 今は昔、熊野に詣でる二人の僧があった。一人は老人、もう一人は年若くとても美しい姿をしていた。牟婁の郡(※4)にいたって、二人は民家に宿をとった。その宿の主人は夫を亡くした若い女(※5)で、女の使用人を二、三人ばかり使っている。
 女主人は、宿泊した若い僧の美しい様子を見ると、ムラムラと愛欲の心を起こして、かいがいしくいたわり(※6)食事を供した。夜、僧たちがすでに寝入った真夜中、女はひそかに若い僧の眠る場所に這い寄ると(※7)、着物をすっぽりとかぶって添い寝をし、彼をそっと揺り起こした。驚いて目を覚まし、すっかり怯えてしまった僧に、女は「この家にはこれまで人をお泊めしたことがありませんでした。それを今夜お泊めしたのは、昼間あなたを一目見たときから、夫にするにはこの方しかいないと心に決めたからです。あなたをお泊めしてこの思いを遂げたい、そう思って忍んでまいりました。わたしは夫を亡くして独り身です。どうか哀れと思ってくださいませ」という。それを聞いた若い僧は非常に驚き、飛び起きると居住まいを正して女に答えた。「わたしは宿願のある身です。日頃から精進を重ね、はるか遠くから熊野権現を詣でにやってきました。それなのにここで願を破ってしまえば、お互いに怖ろしいことが起こるでしょう。だからあなたはその思いをいち早く断ち切ってください」と、かたくなに断わり続けた。女は恨みがましくもだえ、一晩中、僧に抱きつき乱れた。僧は言葉を尽くして女をなだめ、そして「わたしもあなたの仰ることが嫌なわけではありません。ですから熊野に参って、両三日に御明、御幤(※8)を奉納したあと、還向(※9)の途中で、あなたの仰ることに従いましょう」(※10)と約束をした。それを聞いた女は約束を頼んで、ようやく自分の部屋に引き取っていった。夜が明けると、僧は宿を出て熊野に参った。


 ※4.「むろのぐん」紀伊の国、今の和歌山県、三重県にあった郡。
 ※5.「清姫」じゃなくて未亡人! 上記『十二支考』には「清姫という名余り古くもなき戯曲や道成寺の略物語等に、真砂庄司の女(むすめ)というも謡曲に始めて見え、古くは寡婦また若寡婦と記した」(『十二支考〈上〉』岩波書店 1994 岩波文庫 p.300)とある。
 ※6. もとの文では「懃(ねんごろ)に労(いたわ)り」。ここはベタベタまとわりつくような感じだと思う。
 ※7. この時点ですでにヘビっぽい。這い寄る混沌。
 ※8.「みあかし、みてぐら」灯明とお供え。御幤は神に奉納する物の総称。
 ※9.「げんこう(げこう)」お参りして帰ること。
 ※10. やばげなフラグをビンビンに立てた女主人に対して、その場しのぎのでまかせとはいえこの約束はまずい。

 その後、女は約束の日を指折り数えて、ただひたすらに僧を待ちこがれ、彼を迎え入れるための様々な準備もすっかり整えた。ところが僧は還向の途中、女を怖れてその家を避け、こっそりと別の道を通って逃げ帰ったのだった。女が戻らない僧を待ち侘び、道端で行き来する人々にその行方をたずねていると、ちょうど熊野からの帰りだとという僧がいた。そこで「これこれの色の衣を着た、若者と老人の二人連れの僧は、もう帰られたのでしょうか」とたずねると、僧は「その二人の僧なら、とっくに還向してもう三日になりますよ」と答えた。それを聞いた女は手を打って「ほかの道を通って逃げていったのだ」と、怒り狂い、家に帰って寝室にこもった。そしてしばらく物音一つたてずにいたかと思うと、そのまま死んでしまったのだった。それを見て使用人の女たちが嘆き悲しんでいると、突然五尋ばかり(※11)の毒蛇が寝室から這い出して、家を出ると道に向かう。そして熊野からの還向の道を走っていく。道行く人々はその様子を見て大いに怖れた。


 ※11. 一尋は1.8メートル。「五尋ばかり」というと約9メートル。でかい、長い。電柱くらいのサイズ。しかも毒ヘビ。

 でっかいヘビといえば映画の『アナコンダ』(1997)だ。10メートル以上あるヘビがアマゾンのジャングルで、人を食べたり吐き出したりして大暴れする。この「アナコンダ」は実際にとても大きくなるヘビで、公称9メートル。目撃例だけなら50メートル以上なんてとんでもないサイズのものまである。さすがにこれは盛り過ぎだと思うけど。
 日本で大きいヘビというと残念ながら「アオダイショウ」「ヤマカガシ」の、1.5メートル~2メートルが精一杯だとされているが、UMA業界ではまれに10メートル以上の個体が目撃されている。有名なのは七十年代に四国の剣山で目撃された大蛇で、当時新聞でも取りあげられて大騒ぎになった。
 伝承、伝説に目を向けると「ヤマタノオロチ」みたいな怪物をはじめ、今度は大蛇の数が多すぎて追いきれない。ただその数の多さは、日本人の古来からのヘビに対する特別な愛着(信仰)に由来しているように思う。

 かの二人の僧はすでに遠くまで歩を進めていたが、うわさは自然と耳に入った。「この道の後方で奇怪なことが起こったらしいぞ。五尋ばかりの大蛇が野山を越えて、すごい勢いで走ってくるのだそうだ。」それを聞いた二人の僧は「きっとあの家の女が約束を反古にされたことを恨み、毒蛇になって追ってくるに違いない」と思い、慌てて駆け出すと道成寺という寺に逃げ込んだ。「いったいどうなされたのか、そんなに慌てて」という寺の僧たちに、二人はわけを話して助けを求めた。すると寺の僧たちは集まって話し合い、鐘楼の鐘をおろすと、若い僧を鐘のなかに隠して、寺の門を固く閉ざした。老僧の方は寺の僧たちとともに匿った。
 しばらくすると大蛇がその寺に現れた。閉ざされた門の上を乗り越えて境内に入り込み、本堂を一回りしたあと、僧の隠れた鐘のある鐘楼にいたって、しっぽでその扉を叩くこと百回ほど。ついに扉を叩き割って鐘楼に入ると、鐘に巻き付き(※12)、今度はしっぽで龍頭(※13)を叩くこと二時三時ばかり(※14)。寺の僧たちが怖いもの見たさに、鐘楼の四方の戸を開けて覗き込むと、毒蛇は両方の目から血の涙を流し、鎌首をもたげて舌なめずりして、もときた方向に走り去った。大鐘を見てみると、蛇の毒熱の気に焼かれて炎がたっているため、とても近づけそうにない。そこで水をかけて鐘を冷やし、なかを確かめれば、若い僧は完全に焼失して、骨さえ残らず、ほんの少しの灰だけになっている。連れの老僧は嘆き悲しみ去っていった。


 ※12. この鐘のサイズは分からないけれど、一般的な梵鐘だとすると口径は80~100センチくらいか。大きいものでは200センチを越えるものものもあるらしいが、キリよく100センチとして考えると、円周は3メートル以上。この大蛇は体長9メートル強って設定だから三巻きくらいしてるのかな。でかい。
 ※13.「りゅうず」鐘の天辺にある突起。鐘を吊り下げるためのフック。
 ※14. 辞書によると「一時」は今の二時間くらいとのこと。

 その後、この寺の偉い老僧の夢に、あの蛇よりもさらに大きな蛇が現れた。その蛇がいうには「わたしはあの鐘のなかに隠していただいた僧でございます。悪しき女が化した毒蛇によって捕らえられ、その夫となりました。こんなにも気味の悪い汚らわしい姿となって、はかりしれない苦痛を受けております。この苦しみから抜け出そうとしても、わたしの力ではどうにもなりません。生前は法華経を信奉しておりましたが、願わくば聖人の広大な恩徳をこうむって、この苦しみから逃れたいと思います。どうか大きな慈悲の心を起こされて、法華経の如来寿量品(※15)を写経し、わたしたち二匹の蛇を供養して、この苦しみから救っていただきたい。法華経の力でなくては、どうにもならないのです。」こんな夢を見て、目覚めた。
 この老いた高僧は、夢のことを思い仏道に帰依する心に基づいて、自ら如来寿量品を書き写すと、多くの僧を請じ、一日の法会を行って、二匹の蛇を苦しみから救うべく供養をおこなった。その後、高僧の夢枕に一人の僧と、一人の女がたった。二人は微笑みを浮かべ、見るからに嬉しそうな様子で道成寺を訪れ、高僧を拝んでこう語った。「聖人の清浄な善根のおかげで、わたしたち二人は、たちまちに蛇の姿を脱して、天界におもむき、女は忉利天(※16)に生まれ、男は兜率天(※17)へと昇ります。」こう告げた二人が別れ、それぞれ空に上っていくのを見て、夢から覚めたという。
 高僧は二人の昇天を喜び、法華経の威力をますます尊ぶこと限りがなかった。まことに法華経の霊験はあらたかだ。二人が蛇の体を捨て、天上に転生できたのは、ひとえに法華経の力によるものである。これを見聞きした人はみな法華経を仰ぎ、信じてそれを写経し唱えたのだった。高僧の心もまたありがたい。それも前世の善なる知識のおかげだろう。
 そしてあの邪悪な女が若い僧に愛欲の心を起こしたのも、前世の因果によるものだったのかもしれない。
 このように女の執念はとても怖ろしい。だからこそ女に近づくことを仏は強く戒められたのだろう。このことを肝に銘じて、女に近づくことは慎まなければならないと、語り伝えられている。


 ※15. 法華経のありがたい教え、その経典。
 ※16.「とうりてん」仏教の教えのなかの天界。楽園っぽいところとされている。
 ※17.「とそつてん」これも天界の一つだが、ヒエラルキーとしては「忉利天」より上(二段階上)。仏道の修行をした人が多く住むという。

 最後のあたりはどうも抹香臭くてアレなんだけど、全体を通してみると、最初の方の女主人のねっとりとしたいやらしい感じ、血の涙を流しながら鐘に巻き付く大蛇の迫力は素晴らしい。
『今昔物語集』にはこの話とは逆に、愛欲に狂った高僧が鬼に変化して、懸想した相手を手込めにする話も載っている。これまた有名な「巻二十 染殿の后、天狗のために嬈乱せられたる語 第七」がそれだ。女は蛇になって相手を焼き殺し、男は鬼になって女を犯す。狐狸妖怪はあちこちにいるし、なんて物騒なんだ、平安時代。

 ……それにしてもやっぱり、未亡人よりも「清姫」の方がいいなぁ。

 ※上記『今昔物語集』の意訳は、主に頭注を参考にしてまとめましたが、解釈などに間違いのある可能性が大いにあります。超意訳です。またごちゃごちゃと書いてある文章には、定説ではない独断や思い込みが多く含まれていて、引用文以外に資料的な価値はありません。あくまでも感想文ということでご了承ください。


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