「ブラックウッド (A) 」カテゴリ記事一覧


A・ブラックウッド『秘書奇譚』

 

 アルジャーノン・ブラックウッド(Algernon Blackwood)著, 平井呈一訳『秘書奇譚』(“Strange Adventure of a Private” ブラックウッド他著, 平井呈一訳『怪奇小説傑作集〈1〉』東京創元社 1969 創元推理文庫 所収)

 主人公はニューヨークのとある会社社長の秘書「ジム・ショートハウス」。あるとき彼は社長から密命を受ける。社長の友人でかつての共同経営者だった男、「ジョエル・ガーヴィー」のもとへ重要な書類を届け、再び持ち帰って欲しいというのだ。ガービィーは相当風変わりな男で、社長は「どうもやつ、ときどき頭がどうかするらしいな。みょうな噂も聞いておる」なんて言っている。ジムは社長から渡された拳銃をポケットに忍ばせて、ロング・アイランドの寂しい駅に降り立った。
 実際に会ってみると、ガービィーはそれほど警戒すべき相手のようには思われなかった。すぐにとって返すつもりだったジムは、ガービィーの懇願と極上のウイスキーに釣られて、ずるずると帰りそびれてしまう。そして夕食を共にすることになったが、テーブルの向こうのガービィーの様子がどうもおかしい。何やら異様に興奮しているらしい。

『怪奇小説傑作集』の第1巻に収録されていることから、ブラックウッドの作品の中でもとくに馴染み深い一編だ。馴染み深いだけじゃなくて、何度読んでも面白い。主人公は『吸血鬼ドラキュラ』のジョナサン・ハーカーみたいに、所用で怪しげな人物のもとを訪れ、予想通り(読者目線)予想以上(キャラ目線)の酷い目に合う。このパターンを踏襲する作品は結構あって、この「傑作集」の第2巻に収録されている超有名な作品、J・D・ベレスフォードの『人間嫌い』がそうだし、最近読んだサー・ヒュー・ウォルポールの『ラント夫人の亡霊』が丁度そんな感じの作品だった。あくまでも訪問先の人物の問題がメインになってるのが、ホーンテッドハウスものと異なるところ。主人公と読者は事前に胡散臭い話をほのめかされ、わくわく(読者目線)ハラハラ(キャラ目線)しながら件の人物に面会してみると、あれ結構普通?? ……え? ……いやいやいやいや、となる。ことに本作のジョエル・ガーヴィーの異様さは尋常ではない。自分の最恐シーンは上のあらすじに続く食事の場面で、あと終盤の寝室から遁走するまでの緊張感も素晴らしい。本作は一応、人狼ものとして書かれており、曖昧ながら確かにそれらしい描写はあるのだが、印象としてはサイコホラーそのものって感じ。

 この『怪奇小説傑作集』の翻訳は、少しばかり古めかしくて不明瞭なところもあるが、前述の通り何度も読んでいて馴染み深いし、何より古色蒼然とした雰囲気がいい。光文社の古典新訳文庫の『秘書奇譚 ブラックウッド幻想怪奇傑作集』に収録された本作は、もっと平易な翻訳で読みやすくなっている。読み比べてみて、とくに面白いのはジョエル・ガーヴィーのキャラクターで、翻訳によってこれほど印象が違うのかと驚かされる。


 

 ブラックウッド著, 南條竹則訳『秘書奇譚 ブラックウッド幻想怪奇傑作集』光文社 2012 光文社古典新訳文庫 ※巻末に年譜と訳書リストが載ってます。


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A・ブラックウッド『打ち明け話』

 アルジャノン・ブラックウッド(Algernon Blackwood)著, 中西秀雄訳『打ち明け話』(“Confession”『ブラックウッド怪談集』講談社 1978 講談社文庫 所収)

 トラックの後ろを走っていると、たまにこっちに気付いてないんじゃないかと思うことがある。とくに左斜め後ろを走っているとき。ゆるーっと幅寄せしてきて、慌てて元の車線に戻る。そんな挙動をする。昨日の朝はびっくりするほどの霧だった。視界2メートルくらいか。なのでいつもよりびびりながら、ライト類も全て点灯してそろそろと走った(ライト直しといてよかった)。こんなときに限って、斜め前にずっとコンビニのトラックがいる。こっちに気付いてるかどうか、気になってしょうがない。
 乳白色の霧の中から、対向車や自転車の高校生が突然ぼっと現れる感じは、ビジュアル的にはかっこよかったけれど、前の車のテールランプに集中していて、そのかっこよさをじっくり味わう暇もなかった。霧の多い地方の人はほんと大変だと思う。今日は雨になってよかった。

 霧をモチーフにした作品は数多い。単に怖っぽい雰囲気作りのための霧ではなく、霧そのものが怪異の主体となっている作品。この『打ち明け話』もまたそんな作品だ。人の知覚を混乱させる霧が全編を白く覆っている。
 主人公は戦争で心にダメージを負った気弱な男。劇中では「弾丸衝撃症」(シェル・ショック)と診断され、症状として死んだ戦友たちの幻を見る。PTSDだ。そのリハビリのために一人で知人を訪ねるつもりでいたのである。ところが駅から外に出ると、町全体が一歩も進めないほどの濃霧に包まれている。いきなり混乱する主人公。霧の中から通行人がランダムに現れては、消えていく。主人公には霧の中の人々が現実の人間なのか、傷ついた精神が見せる幻なのか判別ができない。どうにかなってしまいそうなのを必死で堪えて、じりじりと進む。やがて見るからに様子のおかしい一人の女と行き合った。
 彼女は主人公に輪をかけてヤバい状態に陥っているらしかった。突然走り出した女の後を追って、主人公は一軒の館に誘われていく。そしてそこで冷たく横たわる女の死体を発見したのだった。

 この作品の霧は人の方向感覚を狂わせるばかりか、時空まで歪めるような超自然的な働きをするらしい。著者はそんな特殊な霧で幽霊屋敷をすっぽりと包み込み、そこにPTSDに苦しむ主人公を配して、過去の出来事を繰り返す系の古典的なゴーストストーリーに一ひねりも二ひねりも加えている。怖さよりも霧の中の不安感が印象に残る作品だが、短編小説としての結講もがっちり備えており、巻末の「訳者ノート」の解説では収録作中、最も優秀な作品と評されている。タイトルは最後に出てくるもう一人の登場人物に、主人公が一連の出来事を打ち明けることから。


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A・ブラックウッド『メディシン湖の狼』

 アルジャノン・ブラックウッド(Algernon Blackwood)『メディシン湖の狼』("Running Wolf" 岡達子編訳『イギリス怪奇幻想集』社会思想社 1993 現代教養文庫 1623 所収)

 知人から絶好の釣りスポットを教えられた主人公のハイドは、休暇を利用してカナダの広大な森林地帯に向かった。目的地はメディシン湖。「野営地は東側に選びたまえ」という知人の忠告に従って、キャンプを湖の東岸に設けたが、どう見ても魚影は西岸に濃い。そこで翌日は西岸で釣糸を垂れることにした。快調に釣果をあげるハイドだったが、森のどこからか一対の目が自分を見据えているような、異様な感覚にとらわれていた。周囲には自分の他は誰一人としていないはずだ。野生の動物だろうか。
 夜、漠然とした不安を抱いたまま寝支度を整えたハイドは、昼間の視線を再び感じることになった。ふと見ると暗闇の奥に緑色に光る二つの目がある。ハイドが投げつけた薪の火花のなかに浮かびあがったのは、巨大な森林オオカミの姿だった。このオオカミ、人によく懐いているのか、火も怖れず攻撃的な仕草も見せない。最初警戒していたハイドも次第にその存在に慣れ、オオカミとの距離を縮めていく。そしてある日、ハイドはオオカミに導かれるように森の奥へと踏み入った。オオカミの向かった先は、遠い昔インディアンが儀式を執り行ったとされる土地であった。

 オオカミはインディアンにとって神聖で神秘的な生き物と見なされてきた。その生態がインディアンの部族の運営や狩りのスタイルの手本になったとも言われている。オオカミに関する伝説や俗信、そこらから派生した習慣は数多い。オオカミの身体はどの部位をとっても強力な呪具になったし、この作品で言及されるインディアン部族のように、オオカミ殺しをタブーとする部族もあった。著者は一時期カナダで牧場を経営してたらしいから、直接インディアンと触れ合い、その俗信や習慣を見聞きしたのかもしれない。わが国においても、オオカミは山と関係の深い人々のあいだで、古くから信仰の対象とされてきた。その有り様はインディアンのそれに通じるものがある。ニホンオオカミは前世紀のはじめに絶滅したとされていて、現在は剥製と骨格標本が残ってるだけという非常に残念なことになっているが、今でもまれに目撃情報が伝えられることがあるし、関連の書籍をめくれば往年の活躍をほんの少し窺い知ることもできる。現存しているニホンオオカミには、もうこの先二度と見つからなくていいから、人の目に触れない山奥でひっそりと、末永く暮していって欲しいと思う。

 話は逸れてしまったが、この作品、最初のうちは同じようにカナダの森林地帯を舞台にした『ウェンディゴ』と似ているなって印象だったんだけど、読み終わってみると全然違ってた。どちらかというと魔術や呪いをテーマにした『いにしえの魔術』と同系統のオカルティックな作品だった。主人公と謎のオオカミの交流を描いた結構ハートフルなストーリーなので、ハードな怪奇小説を期待していると少々拍子抜けしてしまうかもしれない。とはいえ秘境に分け入った主人公の心情は終始丁寧に書き込まれていて、それが作品の大きな魅力になっている。自然のなかで感じられる開放感は、孤独感のプラスの転化である。反面ちょっとマイナスに振れるだけで、すぐさま身動きができなくなるほどの恐怖へと転化する。主人公のように自分が何ものかの攻撃に身をさらしているという可能性が、ほんの僅かでも生じたとしたら尚更だ。本作ではその転化を「移行」と表現し、そんな状況にある精神の移ろいを丹念に描写している。


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A・ブラックウッド『ドナウ河のヤナギ原』

 アルジャノン・ブラックウッド(Algernon Blackwood)著, 中西秀雄訳『ドナウ河のヤナギ原』("The Willows"『ブラックウッド怪談集』講談社 1978 講談社文庫 所収)

 ドイツ南部、シュヴァルツヴァルトの源流から、ドナウ河を延々とカヌーで下ってきた主人公とその友人は、オーストリアを後にし、ブダペストの手前の沼沢地の小島で数日のあいだキャンプを張ることにした。そこは見渡す限り一面、ヤナギが海原のように低く茂る沼沢地である。二人が苦労して上陸した40アールほどの小島も、テントの周囲のほかにはヤナギが深く茂っていて、とてもマトモには歩けそうにない。ドナウ河の水かさはどんどん増している。雷鳴のような音をたてながら流れる濁流は、小さな砂州くらいなら今にも呑み込んでしまいそうなほどの激しさである。言い知れぬ不安を抱きながら、主人公たちは怖ろしい夜を迎える。

『柳』という邦題で知られる作品。江戸川乱歩は評論集『幻影城』のなかで本作を「音又は音楽の怪談」及び「別世界怪談」の項目で触れ、「異次元性に富んだ傑作」と評している。「植物怪談」に分類してないところがさすが。
 著者A・ブラックウッドは、主人公たちが上陸した小島と外界との隔絶ぶりを、筆を尽くして表現している。繰り返し繰り返し描写される激しい濁流やヤナギの不穏なざわめきに、今にも押しつぶされ、呑み込まれてしまいそうな緊張感と、怖ろしいほどの孤独感がつのる。ほんの少し川を上るか下るかするだけで、そこにでっかい町があるようにはとても思われない状況。まさに異世界って感じだ。またこの作品の圧倒的な自然描写は、ただ怖さの醸成のためだけに用いられているわけではない。ドナウ河の変化に富んだ景観の描写にも多くのページが割かれている。川を擬人化してみたり、紀行文みたいな雰囲気からはじまるので、作品の世界に入って行きやすい。



「このすばらしい風景はプレスブルグを後にするとたちまち展開する」(p.145)とあるから、おそらく主人公たちがキャンプしたのは↑この辺のどこかではないかと思う。水路が血管か髪の毛みたいに入り乱れていて、こうして見るとちょっと気味が悪い。ストリートビューで見てみると、川面は劇中で描かれた通り泥の色に濁っている。両岸にずーっと茂っているのはヤナギの木だろうか。地図上の「Dunajské luhy 景観保護地域」周辺は、画像検索でも沢山の写真が出てくるけど、抜群の雰囲気で夜めっちゃ怖そうだ。……という感じで、ほんの少しビジュアルのイメージを入れると、新鮮な気分で再読できて楽しいので、最近、読書→マップが癖になりつつある。もちろん実際に現地に行ければ最高なんだけど。

 著者にはこの『ドナウ河のヤナギ原』をはじめ、カナダの森林を舞台にした『ウェンディゴ』など、人知の及ばない大自然の恐怖を描いた作品がいくつもある。一番有名なのは多分本作だと思うけど、このテーマの作品はどれも甲乙つけ難い逸品揃いだ。著者の怪奇小説には前に感想を書いた『いにしえの魔術』(←前の記事へのリンクです)のようなオカルティックな作品も多いけど、個人的にはこっちのアニミズムっぽい傾向の作品の方が好み、……というか分かりやすく怖い。信仰や宗教観が地味に影響しているのかもしれない。

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A・ブラックウッド『空き家』



 A・ブラックウッド(Algernon Blackwood)著, 伊藤欣二訳『空き家』("The Empty House" 由良君美編『イギリス怪談集』河出書房新社 1990 河出文庫 所収)

 自分はこれまでに二度、町で噂のローカルな幽霊屋敷に行ったことがある。一度めは小学生のころ、友達に誘われて二人で隣町の空き家に行った。もちろん嫌々だ。

 目当ての空き家は堤防のそばにある和風の立派な建物だった。玄関は道路に面しているので、道路とは反対側の庭に回って自転車を隠した。庭には干上がった池があって、草木が伸び放題になってるのがそれっぽかった。
 家のなかには縁側から簡単に入ることができた。室内は和洋折衷な感じで、廊下や畳の上には足跡が残るくらい埃が積もっていた。カーテンが所々垂れ下がっていて、これがまた怖かったのだが、見る限り窓ガラスも割れてないし、家具類が手付かずに残っているのも不気味だった。
 ちょうど今くらいの季節の午後で室内は明るかった。庭に入った時点で結構びびっていたのだが、建物に入って数分後には、もうすでに帰りたくなっていた。雰囲気だけでお腹いっぱいだった。
 びくびくしながら一階を歩きまわって、一通り部屋を確かめたが、なかでも一番ぞっとしたのは食堂らしき部屋を覗いたときだった。
 そこはお勝手と八畳くらいの和室が合体した部屋で、ど真ん中に大きなテーブルと椅子が置かれていた。畳が腐ったのか根太が壊れたのか、テーブルを中心に部屋の床全体がすり鉢状に大きく凹んでいる。
 そのうえ多分羽根布団の中身だと思うのだが、白い小さな羽毛が部屋中に雪みたいに積もっていて、その下には激しく散らかったスプーンやフォークなどの食器が見えた。羽毛をかき分けると、畳の上には赤っぽい絨毯が敷かれているようだった。それまでは意外なほどきっちり整頓されてる雰囲気だったのに、そこだけめちゃくちゃに散らかってるのが衝撃的だった。
 実は二階も見て回る予定だったのだが、結局食堂でギブアップしてしまった。だから不思議な出来事はなに一つ目撃してない……って、これ単に廃屋に行った話ですね。

 一応その建物にまつわる噂も書いておくと、娘の自殺をきっかけに母親がおかしくなって、一家が離散したのが十年ほど前、その後、誰もいないはずの家に人影があった、真夜中になると二階の一室(娘の部屋らしい)に窓あかりが揺れている、というよくあるもの。正直まったく信じてなかったが、十年近く手付かずで放置されているというのは子供心にもちょっと不思議だった。その空き家はそれから数年後に取り壊されて、今では児童公園になっている。

 ……前置きが長くなってしまったが、この『空き家』の著者A・ブラックウッドは、イギリスのブライトンにある幽霊屋敷を訪れたことがあって、この作品はそのときの体験をヒントに書かれたのだそうだ。ブライトンはイングランドの南東部にある海辺の町で、有名な観光地。たまたま今夜やってたTVドラマ『バーナビー警部』の舞台になっていた(『名探偵ポワロ』にも保養地って感じで出てきました)。歴史のある町らしく、幽霊にまつわる話も多く残されていて、ほかにもこの町を舞台にした怪奇小説がある。

 登場人物は心霊好きのおばさんと、なかば強制的に幽霊屋敷を訪れることになったその甥の二人。ノリとしては前述の小学生の幽霊屋敷探訪と同じような感じだが、こっちにはばっちり幽霊が出る。死亡時の状況を延々と繰り返すタイプの幽霊で、その出方も登場人物の挙動の合間に現れては消えるというキレのある動きが描写されていて、かなり怖ろしい。ストーリーは幽霊屋敷突入→撤退というシンプルなものだが、二人の登場人物が魅力的なのと、緊張感のある描写のおかげで読み応えがあった。

 ところで最初に、幽霊屋敷には二度行ったことがあると書いたが、もう一つの方は行ったことがあるというより、住んでました。数年間。ただそれを知ったのが、その物件を出てからかなり経ってからのことだったので……。
 以前からたまに体験談っぽいことを書いているが、計らずもいわくありげな場所の近くをうろちょろしているわりに、まったくその手の体験がない。残念なようなほっとしたような気分だが、そういう才能に恵まれてないのだとつくづく思う。


 ※廃屋、廃墟であっても無断での立ち入りは住居侵入罪にあたることがあるので、肝試しなどの際にはくれぐれもご注意ください。


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A・ブラックウッド『移植』

 アルジャナン・ブラックウッド(Algernon Blackwood)著, 紀田順一郎訳『移植』("The Transfer"『ブラックウッド傑作選』東京創元社 1978 創元推理文庫 所収)

 主要登場人物三人がみんな異能者、超能力者という設定で、常人には感知できない異能バトルが展開される。……こんな風に書くとライトノベルのあらすじみたいだけれど、実際にはSFサイキックバトル的な派手さは全く無く、語り手が妙齢の女性ということもあって、情感豊かな美しい描写が印象的な落ち着いた味わいの作品だった。またオカルト大好きな視点から見ると、この作品は19世紀の科学者カール・フォン・ライヘンバッハが発見した「オドの法則」に基づいて書かれているのではないかと思う。

 語り手は「千里眼」的な自らの感覚を自覚する家庭教師の「グールド」。彼女の教え子の弟の「ジェイミー」坊やは、まだ小さくて自覚こそないものの、何らかの強い感応力を持っている様子。先日感想を書いた楳図かずおの『神の左手悪魔の右手』に出てくる「想」にとてもよく似たイメージのキャラだ。その叔父の「フランク」がジェイミーたち一家の館にやって来るところから物語は始まる。フランクには他人の精気や生命力を吸い取って、自らのものにする「人間スポンジ」のような強烈な能力があるらしく、グールドとジェイミー坊やはフランクが登場する前からその存在を感知して脅えている。

 上記の三人の他にもう一つ、重要な超常的要素がある。それは植物がまったく育たないという館の庭園の一画で、劇中では「境の外」「異常な場所」「怖ろしい場所」などと呼ばれている。グールドは「あの庭園の一画にある死に絶えた土地には、何やら失われたものがある」という。この「境の外」と フランク伯父さんによる「オド」の争奪戦、『スキャナーズ』(1981)のラストバトルを彷彿とさせる「静かな戦い」が本作のクライマックスとなっている。
 最初に「落ち着いた味わい」と書いたけれど、正直かなり地味な作品だと思う。それでもこのクライマックスの緊張感や、フランクの能力の発現を「彼の肉体から放たれた小さな黒い馬の群れ」と表現する斬新でかっこいい発想には驚かされる。

 解説には「吸血鬼テーマをひねり、透視(千里眼)をサブテーマにした奇妙な味の小品」とあり、劇中でも「吸血鬼」という言葉が用いられているが、もちろんこの作品の吸血鬼が吸うのは「血液」そのものではなくて、それが表象する「生命力」だ。また三人の能力に関しても、劇中ではそれぞれに異なった表現がなされているが、全てが「オド」の発現であるとも考えられる。
 最終的にはどこまでが実際に起こった出来事なのか、それとジェイミー坊やと「境の外」の関係については、読者の解釈に委ねられている。印象としてはオカルトに深く踏み込んでいて、「オドの法則」云々は置いとくとしても、やけに濃いのを読んだ気分になる作品。


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A・ブラックウッド『いにしえの魔術』

 アルジャナン・ブラックウッド(Algernon Blackwood)著, 紀田順一郎訳『いにしえの魔術』("Ancient Sorceries"『ブラックウッド傑作選』東京創元社 1978 創元推理文庫 所収)

『いにしえの魔術』は江戸川乱歩が評論集『幻影城』のなかで「この作は後に記す「柳」と共にブラックウッドの傑作中の傑作であろう」(※)と激賞したことをきっかけに、わが国でも広く知られるようになったらしい。
 現在この作品を収録した本としては、この紀田順一郎訳『ブラックウッド傑作選』(創元推理文庫)のほかに、紀田順一郎訳『妖怪博士ジョン・サイレンス』(角川ホラー文庫)と、植松靖夫訳『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』(創元推理文庫)の2冊が比較的手に入りやすい。角川ホラー文庫のものはかつて国書刊行会から出ていた単行本の文庫化で、『ブラックウッド傑作選』とは同じ訳者ながら細部の翻訳に差異が見られる。『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』はこのなかで最も新しく、完全新約。本作は「古えの妖術」というタイトルで収録されている。また古書店などで、講談社文庫の中西秀雄訳『ブラックウッド怪談集』を見かけることがあるかもしれない。黒猫の表紙の文庫本だ(乱歩おすすめの『柳』(The Willows)も『ドナウ河のヤナギ原』というタイトルで収録されている)。これに収録されている『アーサー・ヴェジンの奇怪な経験』が本作。シンプルな原題が色々なタイトルに翻訳されている。

 列車を途中下車した主人公のヴェジンは、フランスの小さな町に逗留することになった。町は静かで穏やかだったが、ヴェジンの脳裏にはこの町のすべてが作り事なのではないか、人々の無関心も実は正反対で、興味津々で自分を監視しているのではないか、という気味の悪い疑念が浮かんでいた。そんな不安を抱きながらも、彼は滞在をだらだらと引き延ばした。そして宿屋の娘イルゼに恋をしてしまう。
 ヴェジンに思いを告げられたイルゼは「つまり、あなたはわたしたちの本当の生活の仲間入りをなさるのね」(p.55)と答えた。かつて仲間であった彼が、再び皆のもとへ戻ることを待ちわびていたのだと。
 日が落ちると町の状況は一変する。獣の本性を現わした夥しい数の人々が、猫のように屋根を伝っていく。イルゼも女王と呼ばれる宿屋の女将とともに、昼間の姿をかなぐり捨てて狂乱している。サバトがはじまるのだ。ヴェジンもまた、いにしえの記憶に煽られ、四つ足で走り出したい衝動に駆られるのだったが……。

 ……というのが大まかなストーリー。江戸川乱歩は前述の『幻影城』においてこの作品を詳細に紹介しつつ、萩原朔太郎の『猫町』との相似を指摘している。確かに「猫の町に迷い込む」という特殊な着想のインパクトは大きいけれど、実際に似ているのはそれくらいで、全体を読み比べてみると印象は大きく異なっている(※参考 萩原朔太郎『猫町』←前の記事へのリンクです)。H・P・ラヴクラフトの代表作『インスマウスの影』("The Shadow Over Innsmouth")は、「猫」こそ出てこないけれど様々な点で本作によく似ている。ラヴクラフトはブラックウッドの熱烈なファンだったというから、執筆に際して本作が念頭にあったかもしれない。それから本作を『猫町』というタイトルで訳出した平井呈一の名作『真夜中の檻』も、本作のヴェジンとイルゼにフォーカスしたような内容の小説で、うっとりとまどろむような雰囲気のなか、主人公が知らず知らずのうちに自由意志を削られていく様子には、本作に通じるものがあるように思う。

 この作品は「心霊学の医者」ジョン・サイレンスによる、主人公ヴェジンに対する聞き取り調査という形をとっている。ジョン・サイレンスは本作が含まれる連作の看板キャラで、オカルトの権威って設定。現在でも様々な媒体で活躍するゴーストハンター(妖怪ハンター)の草分けの一人だ。前出の平井呈一によると、レ・ファニュの『緑茶』("Green Tea")に登場するマルチン・ヘッセリウス博士の趣向を踏襲したものではないか、とのことだが、こうした「解決者的人物」を配するスタイルが当時流行っていたらしい。とはいえ本作においては、はじめと終わりにちょこっと登場して解説を述べるに止まっている。

 感想っぽくないことを長々と書いてしまったが、A・ブラックウッドは大好きな作家で、なかでも同じ『ブラックウッド傑作選』に収録されている『ウェンディゴ』("The Wendigo")は特別に好きな怪奇小説だ。もちろんこの『いにしえの魔術』も書かれてから百年以上経ってるとは思えないほど、映像的で美しい描写の冴える名編で、精緻に描き込まれた中世を思わせる穏やかな町並みに、得体の知れない不吉な影が見え隠れする、そんな微妙なニュアンスが見事に表現されている。
 また主人公のヴェジンがイルゼに告白して以降の激しい転調は圧巻。雪崩を打つような勢いでサバトに向かう人々の群れが、強い遠近感のなかに描き出されている。ただこのサバトの描写は、ピエール・ド・ランクルの『 堕天使と悪魔の無節操についての描写』("Tableau de l'inconstance des mauvais anges et démons" ←詳しくはwiki等参照)の銅版画のまんまの、相当ベタなイメージで、宗教観もなく「クリスマスのサンタクロース」と大差ない、ペラい「サバトの魔女」観しか持ってない自分には、このあたりの「怖ろしさ」は正直よく分からない。イルゼかわいいし猫好きだし、一緒に行けばいいのになー、なんて思わなくもない(というか思った)。還俗してしょぼくれたヴェジンを見てると、どうしてもあっち側の方が楽しそうに思われてならない。
 そこで参考書というわけではないけれど、悪魔や魔女について書かれた本にちらっと目を通しておくと、より一層本作を楽しむことができると思う。例えば種村季弘『悪魔礼拝』では、イルゼが体に塗っている油「魔女の膏薬」について、まるまる一章を割いて詳しく解説されている。

 ※ 江戸川乱歩『江戸川乱歩推理文庫〈51〉幻影城』講談社 1987 p311-312


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