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堀辰雄『麦藁帽子』

 堀辰雄『麦藁帽子』(『燃ゆる頬・聖家族』)新潮社 1970改版 新潮文庫 所収)

お前はよそゆきの、赤いさくらんぼの飾りのついた、麦藁帽子をかぶっている。そのしなやかな帽子の縁が、私の頬をそっと撫でる。私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。しかしお前はなんの匂いもしない。ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするきりで(p.13)


 この作品には最初と最後に印象的な「匂い」の描写ある。最初はこの帽子の縁が頬をかすめたときの匂い。主人公の私は「お前はなんの匂いもしない」と言うが、ここで感じたかすかな麦藁帽子の匂いは、まだまだ子供分が強かった頃の夏の日の象徴として、「お前」への焦れるような思いとともに、記憶に焼き付いたに違いない。

 この作品は徹底して「私」の主観で書かれていて、読者は「私」の目と、幼い感性のフィルター越しに「お前」を見る。いや、見るじゃなくて「感じる」といった方がぴったりだ。その目はなにひとつ役に立ってない。ちっとも「お前」を見れてない。へぼい。海や砂浜やその他諸々の描写の明晰さとはうらはらに、「お前」に対しては横目で盗み見るような、そんな描写ばかりである。だから読者にとっての「お前」の印象も、よく日に焼けた愛らしい女の子に違いないって感じの漠然としたもので、しっかりした像を結ばない。だから「匂い」なのかな、と思う。

 もう一つの匂いの描写は作品のエピローグ、関東大震災で被災した「私」が、避難所のテントで再会した「お前」の傍らで眠るシーンである。冒頭の麦藁帽子の日から数年が経っている。

ふと目をさますと、誰だか知らない、寝みだれた女の髪の毛が、私の頬に触っているのに気がついた。私はゆめうつつに、そのうっすらした香りをかいだ。その香りは、私の鼻先きの髪の毛からというよりも、私の記憶の中から、うっすら浮んでくるように見えた。それは匂いのしないお前の匂いだ。太陽のにおいだ。麦藁帽子のにおいだ。……私は眠ったふりをして、その髪の毛のなかに私の頬を埋めていた。お前はじっと動かずにいた。お前も眠ったふりをしていたのか?(p.33)


 その翌朝、「私」は母の死の知らせを聞いて涙を流した。この作品では母親の存在がすごく重要な要素になっていて、「私」の成長の要所にするっと描写が挿し込まれているのだけれど、ここで「私」が流した涙は「自分がもう愛していないと思っていたお前、お前の方でももう私を愛してはいまいと思っていたお前、そのお前との思いがけない、不思議な愛撫を思い出して、そのためにのみ私は泣いていたのだ」(p.33)という。
 濃厚に死の気配の漂う中、強烈な喪失感が「私」に押し寄せている。その情動を喚起せしめたのは、確かに母の死ではなく、「お前」の髪の毛から香る、あのころと同じかすかな匂いだったのだろう。すべてが変化して、失われていくことを感じながら、たったひとつ変わらずにいたものに気付いてしまったからこそ、喪失感、手遅れ感は大きい。

 中学の時に半ば強制的に読まされて以来、何度となくこの作品は読み返しているのだけれど、そのたびになんかこう、じりじりする。焦ってるような、腹立たしいような変な気分になる。劇中の「私」とは、なんら共通する体験がないにも関わらず、しっかり共感しているのだと思う。「私」が結構ヘタレなだけに、複雑な心境だ。

 本作に登場する「お前」のモデルとなった少女「内海妙」は、やがて「私」とは別の男性の許に嫁ぎ、女の子を出産した翌年の夏、26歳で病没している。老いや病に匂いがあるように、生命にも匂いがあるとすれば、「私」が感じていた「お前」の匂い、麦藁帽子の匂いは、日々少しずつ失われていく命の匂いだったのかもしれない。


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