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萩原朔太郎『地面の底の病気の顔』他

 

 萩原朔太郎『地面の底の病気の顔』(『萩原朔太郎詩集』三好達治編 岩波書店 1952 岩波文庫 所収)
 萩原朔太郎『夜汽車』(同上)

『猫町』の感想を書いて以来、たまに『萩原朔太郎詩集』をつまみ読みしてる。探偵小説好きの作者ってことで、それらしい作品は確かに多いんだけど、やっぱり「詩」は難しい。

 例えばこんな詩。

  地面の底の病気の顔

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。


 なんかめっちゃ怖い。異様なイメージだ。病的で強い孤独感を感じる。
 でも意味はよく分からない。ああ、そういうことか! ってならない。すっきりしない。この詩が著者の幻視した気味の悪いイメージを伝えることを主眼にしてるなら、それは相当いい感じで伝わってきてると思う。夢に出そうなほどだ。でも所謂「深読み」が必要で、じゃないとこの誌本来の意味や良さを汲み取れないのだとしたら困る。困るけど、詩ならではの読み方とか分からないので、特に深読みもせずにいつもの感じで感想書きます。

 この詩に用いられているストレートに心情を表している言葉は「さみしい(さびしい)」「あはれ」の二つだけ。それが繰り返し用いられている。地底の「病気の顔」は著者自身なのかも知れないし、そうじゃないかも知れない。ただ以前『猫町』(←前の記事へのリンクです)の感想で書いたように、著者は一時期相当精神的に参っていたようで、これが作者自身の顔だとしても不自然じゃない。土のなかに埋まって髪の毛を震わせているという強い閉塞感と孤独感は、病み疲れた著者の心情をよく反映しているように感じる。また自らの顔を「さみしい病人の顔」と描写するのは、何となく自己愛強そうな著者にぴったりだと思う。

 それにしてもこの「地面の底の顔」というイメージは強烈だ。土臭い暗闇のなかでカッと目を見開いた青白い顔が、ばっちり脳裏に浮かぶ。二連目の後半の感じから、著者はどうやら青竹の根からこの奇怪な状況をイメージしたようだ。どこをどうしたらそうなったのかは分からないけれど、この少ない文字数でのイメージの感染力の強さは「詩」ならではのものなのかも知れない。

 この作品以外にも、著者には病的で奇怪な雰囲気の作品が多い。何度か読み返してはいるのだけれど、まだよく理解できないのも結構ある。余談だが、手元の『萩原朔太郎詩集』に載ってるなかで良いなコレと思ったのは、全然病的でも奇怪でもない次のような作品だった。

  夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅人のねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるきにすのにほひも
そこはかとなきはまきたばこの烟さへ
夜汽車にてあれたる舌には侘しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科は過ぎずや
空気枕の口金をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。


 分かりやすくノスタルジックな、古い映画のワンシーンのような作品で、夜汽車なんて乗ったこともないのに、ふわっとまとわりついてくる人いきれの不快感と安心感、青みが差し始めた車内のけだるい雰囲気が、まるで経験したかのように感じられる。ラストの二行、ぼんやりとした視界の中に、ポンと飛び込んでくるオダマキの白さは、目が覚めるような鮮やかさだ。やっぱりイメージの喚起力が強い。


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萩原朔太郎『猫町』

 萩原朔太郎『猫町』(中島河太郎, 紀田順一郎編『現代怪奇小説集〈上〉』立風書房 1978 所収)

 萩原朔太郎は大正から昭和のはじめにかけて活躍した、日本を代表する詩人。この『猫町』は著者の数少ない小説のひとつで、アンソロジーに収録されることの多い作品だ。著者は探偵小説好きとしても知られていて、江戸川乱歩との交流もあった。本職の詩の方でも探偵や殺人事件をモチーフにした作品をいくつも発表している。
 本書の巻末に収録されている編者紀田順一郎の『日本怪奇小説の流れ』に詳しいが、当時の「広義の探偵小説」には推理やパズルの要素を主題とした小説ばかりではなく、怪奇小説や幻想小説なども含まれていて、作者も読者の数も後者の方が多かったという。きっと萩原朔太郎も後者をより好んだのではないかと思う。

 江戸川乱歩の評論集『幻影城』には、この『猫町』が少々異例な扱いで取り上げられていて、アルジャーノン・ブラックウッド(Algernon Henry Blackwood)の中編小説『いにしえの魔術』("Ancient Sorceries" 乱歩は『古き魔術』と表記)との類似が指摘されている。乱歩は「萩原朔太郎の「猫町」を敷衍するとブラックウッドの「古き魔術」になる。「古き魔術」を一篇の詩に抄略すると「猫町」になる」(※1)と言い、ともに乱歩好みのユートピアを夢想する物語であるとしている。もちろんこの2作品の類似は偶然だと思われる。

 ストーリーは、モルヒネ、コカインなどの薬物中毒からどうにか快復し、健康のために散歩を始めたという「私」が、北越地方のKという温泉に滞留した際に、猫ばかりが住む未知の町に迷い込んでしまうというもの。元来、私は極度の方向音痴で、よく道に迷うことがあった。長らく体を蝕んできた薬物の影響もあったのかもしれない。猫の町は実はよく知っている近隣の町で、普段とは異なった方角から町に迷い込んだために、それをまるで見知らぬ町のように感じたのだった。

 本作は全ページ数の半分程度が「私」の近況報告に費やされていて、確かに「猫の町に迷い込む」という特殊なモチーフが強く印象に残るけれど、ガチオカルトな『いにしえの魔術』とはかなり趣きが異なっている。怪異に論理的な説明をつけようとしているあたり、もしかすると著者なりの「探偵小説」を書こうとしてたのではないかって気もする。
 この作品を発表した1935年(昭和10年)ごろの著者は、離婚に端を発した様々な精神的な苦痛からようやく快復して、まさに作中の「私」のような状態だった。多くの作家たちのように実際に薬物を用いていたかどうかは定かではないが、一時期相当まいっていたことは確かなようだ。
 著者は代表作『月に吠える』の序文のなかで「詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである」(※2)と記していて、本作もまたそんな「寂しいなぐさめ」の一つだったのだろう。また自分自身を猫に例えて「私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない」(※3)とも語っている。「私」が迷い込んだ猫の町は、病める一匹の猫が夢見た理想郷だったのかも知れない。

 ところで今回この作品を読み直すきっかけになったのは、先日発売された雑誌『怖い噂 vol.16』(←amazonへのリンクです)のなかの「日本魔界紀行 FILE 01 東北に鎮座する犬の宮と猫の宮」という記事だった。山形県東置賜郡にある二社の神社、「犬の宮」と「猫の宮」が紹介されている。隣り合わせで建立されているのがとても珍しいらしい。似たような記述がどこかにあったような気がして、思いついたのがこの『猫町』だった。「私」の散歩の道すがらの思索のなかに、「犬神」「猫神」を祀る憑き物筋の部落のことがちらっと出てくるのである。読み直してみると実際には全然似てなかったんだけど、ほんの少しの記述ながら「私」が体験する怪異の興味深い前振りとして印象に残っていたようだ。


 ※1. 江戸川乱歩『江戸川乱歩推理文庫〈51〉幻影城』講談社 1987 p.359
 ※2. 萩原朔太郎『萩原朔太郎詩集』三好達治編 岩波書店 1952 岩波文庫 p.70
 ※3. 同上 p.190

 ※関連記事です↓A・ブラックウッド『いにしえの魔術』
 http://serpentsea.blog.fc2.com/blog-entry-140.html


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