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小松左京『空飛ぶ窓』

 小松左京『空飛ぶ窓』(『夜が明けたら』勁文社 1985 ケイブンシャ文庫 113 こ01-05 所収)

 今は廃業してしまったが、昔近所に双子のおっさんがやってる自動車修理工場があって、小学校への行き帰りにはその前を通った。工場の建物の隣のスペースには廃車やサビサビのドラム缶が並べられていて、なぜか年中でっかい水たまりができていた。その水たまりは当時の自分にとって、磯の潮溜まりと並ぶ絶景スポットだった。油が浮いた虹色の水面を雲がすごいスピードで流れていく。それがやけに綺麗で、面白く思えた。じーっと見てると吸い込まれそうで、微妙に不安になってくる。でも見るのをやめられない。……『空飛ぶ窓』はそんな子供の頃の、ざわざわした、妙な気持ちを思い出させる作品だった。以下あらすじ等。

 粉雪が舞う日に、小学校から遅く帰った娘が妙なことを言いはじめた。近所の原っぱに「窓」を見たというのだ。窓枠が空中に貼りついたように浮かび、その向こう側には青空が広がっていたという。寄り道した言いわけ、そう考えた母親が娘の話を夫に告げると、意外な応えが返ってきた。娘は嘘をついてるのではない。きっと「窓」を見たのだろう、あまりに寒いと子供にはそういうものが見えることがある。ただし大人からすれば、現実にはない、白昼夢のようなものだけれど、とのこと。彼は幼い頃、雪原で追いかけっこをするカウボーイとインディアンを見たのだそうだ。娘もやはり白昼夢を見たのだろうか。それにしては今日は夫が言うほど寒くはなかったはずだが……。

 作品の舞台はちょうど今日みたいな天候の地方の町で、はっきりとは書かれてないけど、人口密度はかなり低いっぽい。そんな寂れたどこかの町に、マグリットの絵のような不思議な光景が現出する。雪に覆われた原っぱに浮かぶ窓と、ぽつんと佇む赤いコートの少女。鮮烈で、どこかうら寂しいイメージである。なぜそんな場所に「窓」が現れたのか、なぜ「窓」に不思議な特性が備わっていたのかについては、劇中にそれらしい種明かしがある。因果の「因」が書かれない作品に馴れきってるので、わりと唐突な種明かしに戸惑ってしまったが、そこまできっちり書くのがSF作家らしいところか。神隠しの話でもある。

 自分が水たまりの観察に勤しんでた同じ頃、たまーに512BB(LP500Sとか言わないのがリアル)を近所で見たとか、河原に飛行機が着陸してたとか言い出す奴がいた。それで「証明しろよー」なんて責められたりしていたが、今にして思えば彼らには嘘をついてるつもりはなかったのかもしれない。確か三島由紀夫の小説にも、幼年時は夢と現実がごちゃまぜになっている的な一節があったと思う。『仮面の告白』だったかな。子供には時に大人には信じられないものが見えるらしい。


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小松左京『海の森』

 小松左京『海の森』(『夜が明けたら』勁文社 1985 ケイブンシャ文庫 113 こ01-05 所収)

 昔持ってた怪獣図鑑の分類を適用するなら「伝説怪獣」モノど真ん中って感じの短編。怪獣の出てくる小説のファンにはたまらない作品だ。ストーリーは怪獣映画なら自衛隊や防衛軍etcが登場する前の、プロローグのところで終わってるのだが、それでも充分なワクワク感で読み応えがあった。短い作品ながら仏像や古代のゾウに関する薀蓄がかなりの分量を占めている。

 舞台は海辺の土木作業現場。普請場の近くの寮で寝起きする主人公の潜水夫は、深夜地響きのような足音を聞く。それは海から来て寮の傍の通りを山へと向かったらしい。表に出てみると強い潮の匂いがする。そして山の方からは何ものかの怖ろしい叫び声が聞こえてきた。足音と咆哮、ゴジラの大戸島上陸を彷彿とさせる抜群の書き出しだ。
 翌日、主人公は現場で起きた少々嫌な出来事を耳にする。臨時雇いの若い作業員が、崖の上の何かの塚を破壊したというのだ。姿こそ判然としなかったが、塚に祀られていたのは確かに仏像で、台座は例の作業員が海に蹴り落としてしまっていた。その日以来、海は濁り続けた。海中の視界が確保できない中、案の定事故が発生する。それでも作業は続けられた。
 次の夜も主人公はあの足音を聞いた。外に飛び出してみると、アスファルトの上に巨大な足跡が続いている。生臭い磯の臭い。巨大な獣の息遣いのようなものが、すぐ先の闇の中から聞こえる……。

 この時点では足音の主と石仏との具体的な関連は明示されない。しかし悪い予感しかしない。あーこれ、確実に悪いの解き放っちゃってるわって感じだ。
 劇中の地元の漁師によると、舞台となった作業現場周辺の海底には「鯨の墓場」があるらしい。石仏の安置されていた塚も「鯨塚」ではなかったかと考察されている。「鯨塚」というのはその名の通りクジラを祀った塚で、「鯨碑」「鯨墓」などと合わせて全国各地に100基ほどが点在している。日本特有の風習らしい。なかにはクジラが参りやすいようにと、海に向けて建てられたものもある。劇中には石仏の下から巨大な骨が出土するくだりがあるが、現実にもクジラの遺骸の上に築かれた「鯨塚」が複数存在する。

 作品の最後では散りばめられていたヒントの数々が綺麗に組み合わさり、推理小説みたいにすっきり謎が解ける。石仏の正体が「普賢菩薩」であり、「鯨の墓場」が実は古代のゾウの墓場だったこと、そしてあの足音と咆哮の主の正体等々。主人公は海底に森と、そこに揺らめく無数の「見えない巨大な獣」の姿を見る。クライマックスの海底の森の、美しく荒涼としたイメージが印象的だった。


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小松左京『秋の女』

 小松左京『秋の女』(『ハイネックの女』徳間書店 1983 徳間文庫 所収)

 四十がらみの主人公が山口から下関周辺を巡り、かつての乳母を訪ねる一人旅の途上、四人の女性(乳母、人妻、シスター、庵主さん)と再会したり知り合ったりする。だだそれだけの話。一つ怪異が生じているが、夢のように曖昧模糊として現実感はない。

 ごく静かな本作、それじゃ何が書かれているのかというと、主人公が行く先々で目にする町並みや建造物などの風景の数々と、その歴史的な背景が中心で、紀行文みたいな感じだ。ときに主人公の視線は湯呑み茶碗のような小物にまで愛しげに注がれている。冒頭で主人公は、中原中也の出身地として知られる湯田温泉の古い旅館の縁側で、手にした萩焼の茶碗から乳母の「お咲さん」を連想する。焼き物を見て彼女を訪ねることを思い立ったのだ。
 萩焼というと、この手のアイテムには興味の無い自分でも、名前くらいは聞いたことがある有名な陶器だ。確か2時間サスペンス (「小京都ミステリー」だったかな) に出てきた覚えがある。素朴な形状のいかにも使い勝手の良さそうな器で、ピンクと薄黄色と乳白色と、ときに淡い紫色に発色した釉薬が、薄曇りの日の夕焼けみたいに綺麗なグラデーションを描いている。もっと全然違った色合いのものもあるのかもしれないが、萩焼のイメージはこの色。なるほど乳母かーって感じの、地味ながら優しい色合いだと思う。

 主人公が乳母を訪ねて赴いた山口県の下関は、怪談ファンでなくてもお馴染み八雲の『耳なし芳一』の舞台となった赤間神宮がある街だ。そこには壇ノ浦で亡くなった幼い安徳天皇が祀られている。平家一門を祀った塚もある。これらのことを背景に生じる劇中の怪異は、短いながら抜群の雰囲気で、和風ホラーのファンにはきっと楽しめることと思う。また湯田温泉を発った主人公が、亀山公園のザビエル記念公園でメインヒロインの「宇治夫人」と出会ったあたりから、実はうすーく広範囲に生じた異界に足を踏み入れていたのではないか、なんて気もしてくる。もちろんその中心は赤間神宮だ。
 宇治夫人は非常に美しく謎めいたキャラクターで、彼女の中にはお嬢様育ちで世間知らずなキュートさと、人を圧するような異様な迫力が共存している。そして彼女には常人とは異なった何か不思議な力があるらしい。

 物語は談笑する四人の女性と、その様子を少し離れて鑑賞する主人公というシーンで終わる。タイトルの「秋」は劇中の季節が秋ってこともあるけど、美しい風景の中に佇んでNPCのように主人公を誘導する四人の女性の、それぞれが迎えた人生の「秋」の季節を指している。面白いのは主人公が彼女たちを草木に例えているところで、子福者の乳母はたわわに実をつけた晩秋の柿の木、宇治夫人は馥郁と香る大輪、中輪の黄菊白菊、シスターはすがすがしい緑を湛えた常緑樹、そして庵主さんは優しさの中に深みを湛えた楓の紅葉……って感じ。それぞれに中年を過ぎ、異なった形の「人生の秋」を迎えた女性たちの姿が鮮やかに描き出されている。
 風景や建物や小さな器や女性たちのイメージが次々に移り変わり、歴史的な背景と渾然となって、少しだけ不思議なストーリーを静かに紡いでいく。美しく味わい深い作品だった。

「過去はどうあろうとも、それぞれに、あたたかく、やさしく、しずかで、充実した「秋」をみのらせれば、それは女性としても、人としても、めでたい事ではあるまいか?」(p.173)


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小松左京『湖畔の女』

 小松左京『湖畔の女』(『湖畔の女』徳間書店 1983 徳間文庫 201-4 所収)

「憑き物」について先日の『学校の怪談大事典』には「なにものかの魂や意思が人間のからだにとりついて、その人間の意思とはことなるいろいろな行動や現象をきたさせる超自然的なもの」(※)とある。なかでも動物霊の憑き物はよく知られていて、その代表は「狐」、それから「犬神」「蛇」「猫」「狸」と続く。

 この『湖畔の女』の舞台は、ちょうど今ごろの季節の琵琶湖。初老のSF作家が湖畔で美しい女と出会う。女は蛇に憑衣されているという。といっても『道成寺』の清姫みたいに怒りのパワーでドカンと変身するわけではなく、獲物に絡み付き、締め上げ、呑み込もうとする蛇のように、人格が豹変するのだ。性交時に。
 著者の作品にはしばしばエロい描写があって、子供のころはかなりドキドキそわそわしながら読んだものだ。で、この作品のエロ描写はというと、正直なところエロいっていうよりアグレッシブすぎて怖い。女の振舞いは暴力的で、鬼気迫っていて、あーこりゃ憑いとるわって感じがすごくする。まさに「食う」って言葉がぴったりな感じ。暗闇のなか、汗ばんだ女の体が蛇みたいに蠢めくさまを、著者はノリノリで描写している。また女の「吐息」についての迫真の表現も、その気味の悪いほどのねちっこさフェチっぽさで、超常的な雰囲気作りに一役買っている。

 この作品は「古き佳き日本の女性の美しさ」をホラーやオカルト、SFなどの様々な手法を用いて描く「女シリーズ」の一編。シリーズとはいっても個々の作品は、どれも異なる趣向でそれぞれ独立した作品になっている。解説には「基調ムードは、ほろびゆくものへの挽歌のしらべだろう」とあって、これは本書に収録された五編に対しての評だが、それ以外の作品を含めたシリーズ全体からも、同様のノスタルジックで物寂しい印象を受ける。

 劇中では芸者をあげてのドンチャン騒ぎがあったり、関西弁の賑やかな応酬が続いたりするのだけれど、なんとなく空騒ぎぽくって、やはりそこはかとなく寂しい。寒々とした琵琶湖の情景のせいなのか、それとも初老の登場人物が抱く感傷に共感してそう感じるのかは分からない。ただ全編にそんな寂漠とした空気が漂っているからこそ、快楽を一心に貪る女の生命感は異様なほど鮮やかで、強く印象に残る。


 ※日本民話の会 学校の怪談編集委員会『学校の怪談大事典』ポプラ社 1996 p.55


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小松左京『霧が晴れた時』

 

 小松左京『霧が晴れた時』(『霧が晴れた時 自選恐怖小説集』角川書店 1993 角川ホラー文庫 所収)

 ハイキングに出かけた家族四人が、霧を抜けて、迷い込んだ無人の土地で孤立してしまうという話。隠される側の視点から描かれた「神隠し」小説の一種といえるかもしれない。ごく短い作品だけど、完成度の高さと読後の寂寥感が、強く印象に残る。

 家族が辿り着いた集落には、たった今まで人のいた形跡があった。かまどには鍋が煮えていて、囲炉裏端に置かれた湯飲みからは湯気が立っている。なにもかもやりかけのまま、主がふと席を外したかのような、そんな状況。やがて母親や娘までいなくなってしまう。交番に駆け込んでも無人、電話もかからない。電車は鉄橋の途中で止まっているし、ラジオからはただノイズだけが流れてくる。「マリー・セレストみたいだね、ねえパパ……」

「霧」でまず思い出すのは、ジョン・カーペンターの『ザ・フォッグ』(1980)、それから前に感想を書いたW・H・ホジスンの『夜の声』も海上の霧が印象的な作品だった。ジャンルを問わずあらゆる作品のなかで、霧はこの世ならざる雰囲気を盛り上げ、ときに本作のように人を異界へと誘うアイテムとして用いられている。この選集の表題に本作のタイトルが選ばれたのも、そのあたりを踏まえてのことだろうと思う。

 後書きによるとこの作品は、著者が自分にとって本当に怖ろしいものはなにかと考えて、書かれたものであるという。派手な超常現象が発生したり、怪物や幽霊が出てくる作品ではない。それでも囲炉裏端の湯飲みから始まって、徐々に拡大しながら積み重なっていく、不在の描写の不気味さ、心細さは極上。

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小松左京『黄色い泉』

 

 小松左京『黄色い泉』(『霧が晴れた時 自選恐怖小説集』角川書店 1993 角川ホラー文庫 所収)

 先日『今昔物語集』の感想文のために、著者の『霧が晴れた時 自選恐怖小説集』を引っぱりだしてきて『まめつま』って作品を読み返したところ、案の定そのままの勢いで他の作品まで読んでしまった。収録されているのは60年代から70年代にかけて書かれたものばかりだけど、どの作品もまったく古びることなく、とにかくおもしろかった。有名な『くだんのはは』や前述の『まめつま』など、日本的な要素が多分に盛り込まれた作品なかには、とくに興味深いものが多いように思う。この『黄色い泉』もそんな傾向の作品だ。

『黄色い泉』というタイトルからして、不吉で、なんとなく神話ぽい雰囲気が感じられるし、おおむねそういう話なんだけど、なにより注目したいのはこの作品が「UMA小説」だというところ。恐竜小説でも、怪獣小説でも、妖怪小説でもなく「UMA小説」。この場合のUMAは、オリジナルの怪物を作中でUMAって呼んでるとかじゃなくて、雑誌『ムー』に繰り返し載ってるようなポピュラーなUMAを指す。こんな感じの厳密な意味でのUMAを扱った小説は結構珍しいと思う。しかもそのUMAというのが「ヒバゴン」。渋すぎる。
 
「ヒバゴン」は1970年にはじめて目撃された二足歩行の獣人タイプのUMAで、1982年までのあいだに断続的に十数回の目撃例がある。獣人タイプのUMAというと、巨大な「雪男」のような姿を連想するが、ヒバゴンはせいぜい身長1.5メートル程度のサイズで、ずんぐりとした体形をしているらしい。子供のおもちゃのピストルで撃たれて逃げ出した、なんて微笑ましいエピソードもある。最近ではあまり(ほとんど)その名を聞かなくなったが、海外のUMA関連本でも紹介されるなど、日本を代表するUMAのひとつだ。名称は中国山地の比婆山連峰周辺に目撃が集中したことに由来する。

 前置きが長くなってしまった。肝心のストーリーはというと……ある若い夫婦が広島から出雲にいたる旅行の途上で、予期しない災厄に見舞われる。迷い込んだ比婆山の近辺で、身重の妻が行方不明になってしまったのだ。洞窟の奥深くに妻を連れ去ったのは、周辺で度々目撃されている「比婆山の雪男」だった。

 この作品は『古事記』における伊邪那岐命の黄泉国訪問をなぞるように展開する。ギリシア神話との類似がさんざん指摘されている例のくだりである。もちろん本作の主人公が伊邪那岐命、連れ去られた妻は伊邪那美命のポジション。妻を輪姦する比婆山の雪男の群れは、伊邪那美命に取りついた「八はしらの雷神」である。ちゃんと8匹いるし、妻に群がる彼ら(?)のポジショニングも『古事記』の通りだったりする。芸が細かい。

 それにしても『古事記』のなかの「故、其の神避りし伊邪那美命は、出雲國と伯伎國との堺の比婆の山に葬りき」という短い記述にヒバゴンを絡めて、これほど面白い作品を仕立ててしまう著者の発想の豊かさには驚かされる。物語のオチもしっかりと『古事記』に則っていて、思わず納得って感じ。また作中にははっきりと書かれてはないけれど、そもそも広島から出雲というルート自体『古事記』的には、かなり験が悪いんじゃないかって気もする。

『古事記』やヒバゴンのことばかり書いてしまったが、この短編はとても怖ろしい作品だ。本作を含めて短編集『霧が晴れた時 自選恐怖小説集』に収録された作品には、タイプこそ違うものの、家族を理不尽な、それも残酷なかたちで失う話が多い。この「喪失感」が著者の恐怖小説の根幹をなしているように思う。


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