「泉鏡花 」カテゴリ記事一覧


泉鏡花『龍潭譚』

 泉鏡花『竜潭譚』(泉鏡花『鏡花短篇集』川村二郎編 岩波書店 1987 岩波文庫 所収)

 1896年(明治29年)に発表された神隠し小説。文語体で書かれているからぱっと見た感じ取っ付きにくいけど、ルビにも助けられて意外にすらすら読めた。道端の主人公の千里(男の子です)の目線を追っているうちに「行く方も躑躅(つつじ)なり。来し方も躑躅なり」(p.8)という一面あかね色の、怖ろしいほど綺麗な風景のなかにすっと連れていかれてしまう。

 姉に内緒でツツジの咲く丘を訪れた千里は、丘を越えるうちに危うく迷子になりかけたが、夕暮れには見知った鎮守の社にたどり着つくことができた。そこでは「かたい」(※1)の子供らが、かくれんぼ(※2)をして遊んでいた。仲間に加わって遊びはじめた千里だったが、ふと気付けば誰もいなくなっている。千里を探しにやってきた姉は、弟の顔を見るなり「違つてたよ。坊や」と走り去ってしまう。ツツジの丘で斑猫(ハンミョウ)に刺された頬が腫れあがり、人相が変わってしまっていたのだ。
 千里が目覚めると、そこは「九ッ谺」という山奥の谷だった。姉を追いかけるうちに気を失っていたらしい。見知らぬ「うつくしき人」に添い寝をされた千里が、姉や母を思いながらその乳房を含んでまどろんでいると、屋根の上から凄まじい音が聞こえてきた。「お客があるんだから、もう今夜は堪忍しておくれよ」そう「うつくしき人」が言うと、やがて静かになった。
 翌朝、老人に連れられて町に帰った千里は、町の人々から忌み嫌われて様々な虐待を受ける。たった一人味方の姉もどんどんやつれていく。世間でキチガイ扱いされるうち、千里は自分でも狂ったのではないかと思いはじめていた。そして「千呪陀羅尼」(※3)の祈祷を受けることになった。激しい嵐の吹き荒れる祈祷の夜を、千里は姉の胸に抱かれて過ごした。その一夜にして、あの「九ッ谺」の谷は風雨で溢れかえり、水を湛えた淵となった。

 ※1.「かたい」「かたゐ」は通常「乞食」を指すが、ここでは「貧民層」といったところか。ハンセン病患者をそう呼ぶこともあった。
 ※2. 夕暮れ時にかくれんぼをすると神隠しにあうという民話があり、それを固く戒める地域もあるという。(松谷みよ子「神かくし考」『現代民話考〈1〉河童・天狗・神かくし』筑摩書房 2003 ちくま文庫 所収)
 ※3. 仏教用語。千手観音の功徳を説いた教典。千手観音は衆生を救うために千の手を持つという。

 昆虫の好きな人はすぐにピンとくるかもしれないけれど、この作品に出てくる斑猫に毒はない。だから千里の顔の腫れからして超常的な何者かの仕業なんじゃないかと勘ぐってしまう。また斑猫にはその特徴的な飛び方から「ミチオシエ」「ミチシルベ」という別名があり、冒頭でそれを殺した時点で、神隠しのフラグが立ってしまったようにも思う。そのうえ※1の「夕暮れ時のかくれんぼ」だ。

 本作の構図は母恋しい年頃の男の子を、得体のしれない「うつくしき人」と実の姉が、あっちとこっちの世界から引っぱりあうというものだ。しかし作中の描写から感じられる二人の女性の力量はかなりアンバランスで、「うつくしき人」の底知れなさに対すると、どうしても姉が一方的に不利なように見えてしまう。帰還して以降の千里の振舞いには、魔に魅入られるとはこういうことなのか、という説得力がある。
 非力な姉がそんな強力な相手への対抗手段として、「玉なす胸に纎手を添へて、ひたと、をさなごを抱きたまへる」(p.37)という像にすがったのはナイス判断で、「襟をば掻きひらきたまひつつ、乳の下にわがつむり押入れて、両袖を打かさねて深くわが背を蔽ひ給へり」(p.37)という姉の働きによって勝負は決する。見ようによってはおっぱい対決といえなくもない。

 民話の神隠しの話では、残された親族や周辺の住民の行動がメインになることが多い。住民総出で野山を鐘や太鼓を叩いて歩き回ったり、大声で名前を呼んだりというあれである。神隠しにあってるあいだ、どこでなにをしていたたのかというのが一番興味深いところなのに、『仙境異聞』のような特別なケースを除くと、その辺はいつも曖昧なままになってしまう。その点、本作はフィクションなだけに抜かりなく非常にクリアだ。こんな神隠しにならあってみたいとも思う。また神隠しから返されて終わりではなくて、それ以降の出来事までしっかりと書かれているところもおもしろい。


にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
(この一行は、各ページ下部に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)