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ジブ・I・ミハエスク『夢』

 ジブ・I・ミハエスク(Gib I Mihăescu)著, 住谷春也訳『夢』(“Visul” 沼野充義編『東欧怪談集』河出書房新社 1995 河出文庫 所収)

 主人公の「カロンファル」は資産家である。世間では「ドクター」と呼ばれている。愛妻「ナタリア」も裕福な男爵の令嬢だったが、国境の向こうに置き去りになったまま行方が知れない。ドクターの心の拠り所は、たった一枚残された妻の写真である。彼はくる夜もくる夜も美しい妻の写真を眺め、ベロベロと舐めまわして過ごした。写真では長いドレスに遮られて見えないが、美しい膝のセピア色の小さなアザに彼は執着した。そこにあるはずの密やかなしるしを知っているのは自分だけだ、そう思うだけで彼は幸福だった。しかしある言葉がときおりその確信を揺るがすことがあった。それは戦後、妻を探し求めた先で聞いた言葉だった。「多分助かってますよ。こういう場合は女の方が楽に乗り切りますからね。」……それでも年月は和やかに流れ、そんな思いをすることもごくまれになった。何年もの間、ドクターの気持ちはそこに止まったままになっていたのだ。親しい軍人に「ナタリア」という名の踊り子の話を聞くまでは……。

 なじみの薄いルーマニア産の怪奇小説。河出文庫の『東欧怪談集』に収録されている。
 38度線や、ベルリンの壁みたいに、ある日を境に国家が分断されてしまった状況下で、過去に異常に執着し、独善的な妄想に慰めを求める主人公の魂の危機を描いた作品。怪奇小説といっても超常的な要素は皆無で、幽霊や頭のおかしい殺人鬼が出てくるわけでもなく、本場なのに吸血鬼も出ない。なんかもったいない。それでもさすが傑作アンソロジーに収録されるだけあって、タイトルからは全く想像できないベクトルで怖い作品だった。
 白眉は妻の帰還によって、主人公が思い描いていた「妻が踊り子として生き延び、金持ちの相手をしている」という「最悪のシナリオ」が、ntrフェチの甘い幻想に過ぎなかったことが明らかになるシーン。現実はもっと残酷で、妻の愛情(もしくはプライド)は主人公の想像をはるかに超えて苛烈だったのだ。逃げ込んだ安寧の場所が突き崩され、ごまかし続けてきた自分の醜さが剥き出しにされる恐怖。

 愛する者が思わぬカタチ(多くの場合残酷な姿)で帰還する物語は、遡れば神話の時代から語られ、繰り返し様々な作品のモチーフになってきた。本作の特徴は夢が現実を侵食するような、混沌とした筋運びである。またこの作品の背景には、現在のモルドバ共和国の複雑な歴史(ロシアとルーマニアの間で占領、併合が繰り返されてきた)がある。当然そのあたりの歴史を知ってるに越したことはないが、劇中と注釈で最低限の説明がされているから、詳しくなくてもストレスなく読むことができた。


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